明治44年(1911年)6月29日、現在NHK萩放送局になっている呉服町1丁目の地に藤田傳三郎の銅像が建てられた。
作者は長沼守敬、寄贈者は東京都麹町区紀尾井町の岩下清周(もと大阪北浜銀行頭取)で、藤田の恩顧に対する謝恩の意からであった
建設地の二反三畝余歩は大部分が藤田家の寄付で、この地を傳三郎の号にちなんで「香雪園」と称し、
その維持基金として額面3,000円の五分利公債証書とともに8月18日に萩町に寄贈された。
そのときの岩下の付帯条件は次のとおりであった。
萩では最初のこの銅像は、藤の花の名所の庭園とともに町民に親しまれていたが、その銅像も香雪園も今はなくなって、
園の南西隅には城東会館が建設され、そこにあった三石組だけが萩郷土博物館の野外展示場に移されて
(現在、萩市郷土博物館は堀内の萩博物館となり、三石組は、萩市立図書館に移動している)
藤田傳三郎の萩への愛郷心と、岩下清周の傳三郎に対する報恩の情をしのばせてくれている。
香雪園は、1911年に藤田家が市に寄贈いたしました。
傳三郎は長州・萩の酒屋の四男に生まれ、家業は醸造業のほか、藩の下級武士に融資をおこなう掛屋を兼営していました。維新の動乱期に、高杉晋作に師事して奇兵隊に投じ、木戸孝允、山田顕義、井上馨、山縣有朋らと交遊関係を結びこの人脈がのちに藤田が政商として活躍する素因となりました。
また高杉晋作より2歳下で、生誕の地は高杉の生家(菊屋横丁)から数百メートルの所にございます。
当時は藤田氏の茶道での号にちなみ香雪園と呼ばれ、藤棚が整備され藤の花の名所、市民の憩いの場として親しまれたそうです。
萩城址、萩博物館、菊屋横丁、高杉晋作生家など観光中心地の一角に位置する藤田翁生誕地。
現在はNHK山口放送局が無償で借り受けラジオ用アンテナ塔が建っております。
戦時中の金属供出でなくなった藤田氏の銅像の復活や藤棚が整備され自然豊かな公園として、市民や観光客の皆さんの憩いの場となる事を切に望みます。