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宮内きんじの略歴 | 1959年生まれ45歳 妻、子5人、父、母の9人家族 | |||||||||||
1959年 1975年 1978年 1981年 1982年 1983年 1985年 1987年 2005年 2006年4月23日 |
山口県阿武郡須佐町大字弥富下 に生まれる。 弥富保育園、弥富小学校、弥富中学校と、まぎれもない弥富育ち。 このころ確実に弥富への深い思いが形成された。 山口県立萩高等学校入学 親元を離れ萩市内に下宿。一人暮らしに期待し、弥富を離れることに何の寂しさも感じなかった。それから12年の間、一人暮らしがつづき、話相手がいないため独り言に磨きをかける。 高知大学農学部入学 土佐の人々の屈託のない明るさに気分爽快。独特の方言に若干のカルチャーショックを受ける。楽しくも苦しくもあった学生生活。たくさんの人に助けてもらった。あの頃の友人とは今も親交がある。一生の付き合い。卒論で野菜の流通を取り上げ、市場流通だけでなく産地直送の新しい販路展開を主張。 日本共産党に入党 理論的・科学的な裏づけがある活動に共感。さらに戦争反対や民主主義を戦前から主張し、命がけで貫いた不屈性は、どの党にも勝るものだと思った。 大学は卒業したけど就職できず、なんとか研究生で在学させてもらう。 大学院を目指す同級生とぶらぶらしていたが、中学校の非常勤講師として高知市内の中学校に赴任。全校生徒1000人。ここで対女性恐怖症がすこし軽減する。 高知市立一宮中学校に採用され。理科を担当。部活は女子バドミントン。女の子の真実を見た。1年目は非常に苦労したが、2年目に「仮設実験授業」に出会い、目が覚める。クラスも少しずつ落ち着いたいい感じになってきた。個性を認め合う連帯感あふれる仲間に成長した。 教員をやめ7年の青春時代をすごした高知をあとに、萩に帰る。日本共産党北部地区委員会に勤務。 4月の統一地方選挙でわが愛する郷里須佐町の町議選挙に出馬。何の準備もしなかったのに、何と3位で当選。若干27歳の若造へのみなさんの熱い期待を感じ、気持ちが引き締まる。 以来、みなさんとともに町づくりに励み、あっという間に18年が過ぎる。 この間に、子どもの医療費無料制度の拡充や毎日給食など高齢者福祉、町づくりに積極的な提案を行ってきた。 1987年1月から毎週発行している「すさ民報」は950号を越えて1000号に迫ろうとしている。 須佐町が廃止。合併の過程で誰が本当に町を愛していたか、人々の暮らしを真剣に考えていたのかわかった。しかし、町はなくなり、40km離れた萩市、旭村、川上村、福栄村、むつみ村、田万川町と合併。在任特例で1年2か月間の萩市議会議員となる。田舎の議員が「市議」とはどうもしっくりこない。 合併後初めてのの萩市議会議員一般選挙で1436票で第3位当選。しかし残念ながら旧須佐町から1人しか当選しなかった。 |
![]() わが母校 弥富中学校 ![]() 1987年 須佐町議会議員1年目 ![]() 2003年4月選挙 須佐駅前で ![]() 2006年4月16日出陣式 ![]() 2006年4月23日投票日 |
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宮内きんじの意外な一面 | ||||||||||||
弥富の蕎麦粉だけで打つ手打ち蕎麦が好き。自分で打つ。若い頃は多趣味(絵、詩、短歌、マリンスポーツ、スキー、野球など)。でも今は無趣味。酒、タバコものまない。バクチは全くしない。唯一の楽しみは、睡眠。5人の子らと遊ぶことに幸せを感じる。 |
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ファーマー宮内きんじ |
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農業。アイガモかって無農薬米。リンゴも50a栽培。ほかにトウモロコシ、プルーン、ブドウ、カキ。サクランボも育成中。 秋には、かものはら果樹園でリンゴ狩りを始めます。ぜひどうぞ。 若い人が農山漁村に残らないので、いつまでたっても若いといわれる。農地や山が荒れていくのを見るのは辛い。 |
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むらおこし |
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愛する弥富のむらおこしには、いろんな希望が湧いてくる。少しずつしか前に進まないけれど亀の子しゃんしゃん倶楽部は、動き続けている。当初からのメンバー。村おこし会ではそばの花祭りをすすめている。そば生産組合で種まきから刈取り乾燥、粉引きまでやっている。2005年から弥富中学校校舎の活用をはかっている。 | ||||||||||||
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