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なるほど法話 海 潮 音      


文化 第6話  「あきらめ」ということ    

前回(「無常観と無常感」)、仏教で説く無常観を日本人は無常感として受け取ったと申し上げました。そしてそれは、「諦」という漢字が、本来、「真相をはっきりさせる」という意味だったのに、日本では「あきらめる」という意味に変わったことと関係がありそうだとも申し上げました。今回はその「関係がありそうだ」ということについて申し上げたいと思います。
 
その前に、もう一度繰り返しますと、無常観とは、すべては無常(変化するもの)であると徹見することで、そのことによって、人間の「常にこうあってほしいという思い」(煩悩)を捨てて、現実の変化に自分の心を合わせていけば「苦」は起こらないというのが仏教の主張かと思います。

一方の無常感の方は、「すべてははかない」という日本的美意識ですが、その美意識によって「あきらめ」の感情が誘発されているとすれば、「常にこうあってほしい」という人間の「思い」は捨てられていることになり、現実の変化に渋々ではあっても順応しようとしていることになりますから、これは、現実の変化に心を合わせて「苦」が起こらないようにするという仏教の無常観と、結果的に変わるところはないとも考えられましょう。

それでは、この日本人に特有の「あきらめ」の感情とは、一体どんな構造を持ったものなのでしょうか。

以前、本誌第二〇七号「おのずからの事」の中で、「死」というものは、人間の心の側から見る場合と、天地自然の側から見る場合とでは、まるで違った出来事のように映ると申し上げました。即ち、「死」は、人間の心の側から見れば異常な事態に見えますが、天地自然の側から見れば、桜の花が散るのと同じように自然の事、あたりまえの事と映るはずです。

私たちは平生、人間の心の側に立っていますから、肉親の危篤の知らせを聞けばあわてふためき駆けつけて大騒ぎとなりましょう。そして、あれよあれよという内に、その肉親が亡くなったとしますと、心の底から「はかなさ」を感じることでしょう。

そして何かの力に引かれて「あきらめ」の心が起こったとしますと、そのとき、人間の心の側から天地自然の側に立場を移すことが出来たと言えるように思います。

逆に、人間の心の側から天地自然の側に心を移すことを「あきらめ」と言っているようにも思えます。

もしそうだとすると、「あきらめ」とは、単に「断念すること」ではなく、天地自然の哲理に身を任せることであり、それによって苦のない安らぎの世界を開こうとする日本人の知恵なのかも知れません。(平成13年7月)
 

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