このページは音声読み上げページです。下の[開始]ボタン(右矢印)を押すと、テキストの読み上げを開始します。([開始]ボタン(右矢印)が出ていない場合はここをクリックしてください。)


なるほど法話 海 潮 音      


文化 第5話  無常観と無常感    

インドの仏教は、「すべてのものは無常である」と観ずる無常観を説きます。この無常観は、人間が苦を脱却するための哲理としての無常観です。

どんな風に哲理なのかと言いますと、「無常」の「常」とは、「常にそのまま」ということで、それに「無」がつきますと、「常にそのままで無い」となりますので「変化する」ということです。

何が変化するかといいますと、「すべてのものが」です。ですから私たちのこの体も変化します。すなわち、刻一刻老化し、最後に死んでしまいます。このように観ずることが無常観です。

ところが私たちは、若くありたい、死にたくないと思っています。そうすると、刻一刻老化し最後に死ぬという「事実」と、私たちの「思い」とは食い違いを起こします。そこに「苦」というものが起こる要因があるわけです。

この場合の「苦」の意味は、その原語である”dukkha”から「思い通りにならないこと」という意味だとされています。

その苦を脱却するためには、「事実」と「思い」との間に食い違いを起こさないことです。ところが、「事実」の方は変えようがありませんから、私たちの「思い」の方を換えて「事実」に合わせるしかありません。

すなわち「刻一刻年を取り、やがては死ぬのだ」という思いに換えるのです。そうすると「事実」との食い違いがありませんから、「苦」というものは起こらず、心は平安となるというわけです。勿論その場合、自己の「思い」を換える程の厳しい無常観が求められることになりましょう。

日本人は、仏教の説くこの「無常観」に大きな影響を受けたとされています。人の命のはかなさ、世の中の頼りなさを歌った『万葉集』、無常を想う遁世生活を述べた『方丈記』、「諸行無常」の言葉で始まる『平家物語』、更には〈能〉の中にも無常観を表そうとしたものが多いと言われています。

しかしながら、これらは単に、人間や世間のはかなさ、頼りなさを情緒的、詠嘆的に表現しようとした日本的美意識としての「無常感」であり、インドの仏教が主張する、苦を脱却するための「無常観」とはかなり趣が異なります。

文学の世界だからというのではなく、日本では仏教の世界においても主体的な苦の克服としての「無常観」は影が薄いように思われます。

漢字の「諦」の字は「真相をはっきりさせる」という意味ですが、日本語では「あきらめる」という意味に変わります。この変化は、「観」から「感」への変化と何か関係がありそうに思っています。(平成13年6月)

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。