【海潮寺ゆかりの有 名 人】

 粟屋就貞 あわやなりさだ  右近、帯刀とも称した、毛利吉就のとき当役をつとむ、大島郡小松を開拓し、同地に頌徳碑あり、元禄十四年没、墓なし。
  粟屋帯刀 あわやたてわき  貞之進・篤実・親輔・親忠とも称した、実父は志道煕良、俗論党の大将として絵堂に奇兵隊と戦い敗退す、明治二十一年没、墓なし。
 井原主計 いばらかずえ  通称は熊之進、名は師古・師中・親章、号は雨石・静窓、嘉永六年ペリー来航のとき武州大森に出兵した萩藩兵の総督をつとむ、江戸留守居役、老中、加判役等を歴任、慶応二年没、墓なし。
 宇佐川熊之進 うさがわくまのしん 小幡高政らの唱道に応じて夏橙の栽培と販路拡張に貢献した、明治二十七年没、墓あり。
 岡田馨蔵 おかだけいぞう 明倫館都講、川上小学校長をつとむ、詩及び書にすぐれ「越浜明神碑」「金谷天神梅林碑」「志都岐山神社碑」別院大門の額「済苞」等あり、明治十五年没、墓あり。
 小幡高政 おばたたかまさ 士族救済のため夏橙栽培を奨励し、士族授産資金を活用して多数の苗木を士族に頒布し、萩をわが国最初の夏橙集団栽培地とした、また県下最初の銀行第百十銀行の頭取となった、明治三十九年没、墓あり、また田中龍夫邸内に橙園の碑、及び旧宅跡あり。 
 片山東熊 かたやまとうぐま 県出身者中最初の工学博士、日本赤十字病院・京都国立博物館など代表的な明治建築を設計した、大正六年没、墓は東京青山。
 桂 路祐 かつらみちすけ 安政年間、長崎で蘭学と航海術を学び、江戸及び函館で英学を学ぶ、幕吏に従い黒龍江を視察測量し、のち帰藩して壬戌丸の艦長となる、維新後は巴城学舎の初代校長となり、また二代萩町長にも選ばれた、明治二十四年没、墓あり、旧 宅地は萩市川島。
 金子重輔 かねこじゅうすけ 志士、名は貞吉・重之助とも称した、吉田松陰に従って米艦に投じ、岩倉獄中で病死、安政二年没、墓あり、旧宅跡は萩市津守町。 
 久坂玄瑞 くさかげんずい 幕末の志士、名は通武、のち義助、通称は玄瑞、秋湖・江月斎と号した、吉田松陰に学び、松下村塾の俊才と称され、松陰の妹を妻とした、尊王攘夷を唱え、文久二年脱藩し、藩論統一、イギリス公使館焼き討ちなどにあたり、元治元年禁門の変において負傷し自刃した、元治元年没、墓は京都霊山及び萩市東光寺、歌碑は萩市平安古町。
 口羽杷山 くちばはざん 名は徳祐、杷山と号した、寺社奉行、儒学に造詣深く、詩文にすぐれた、吉田松陰の親友、「杷山遺稿」がある、安政六年没、墓あり、旧宅跡は萩市堀内。
 栗山孝庵 くりやまこうあん 藩医、名は以直、字は文仲、通称は養庵、のち孝庵(二代目)を称した、京都の医官山脇東洋の高弟、宝暦八年、日本で二番目の男体解剖を、翌年には日本最初の女体解剖を行った、寛政三年没、墓あり。       
 宍戸元続 ししどもとつぐ 安芸国甲立城主、宍戸隆家の孫、毛利輝元に従って防長に移り、一門家老の筆頭となる、寛永八年没、墓は防府阿弥陀寺。
 宍戸親基 ししどちかもと 萩藩の一門家老、三丘村(熊毛町)領主、幕末維新期に活躍した、明治二十七年没、墓は三丘正安山。
 滝口吉良 たきぐちよしなが 阿武郡明木村(旭村)の生まれ、貴族院議員、衆議院議員等を歴任、日本最初の村立図書館を明木に、郡立図書館を萩中学校に創設した、昭和十年没、墓あり。滝口氏別邸は萩市平安古町。
 土井市之進 どいいちのしん 陸軍少将、日露戦争のとき軍事探偵として活躍、また萩町長なども歴任した、昭和二十四年没、墓あり。
 長井雅楽 ながいうた 萩藩士、名は時庸、通称隼人、文久元年、積極的開国論である航海遠略策を説いて藩論を代表し公武間を周旋したが、藩論が尊攘に転ずる中で、松陰門下の反発にあって失脚、藩命により自刃した、文久三年没、墓あり、旧宅跡は萩市土原町。
 永田政純 ながたまさずみ 史家、通称瀬兵衛、右筆となり、のち藩主の命を受けて御内用掛(修史局)となり、『寺社証文』や『閥閲録』などを完成させた、宝暦四年没、墓あり。 
 三戸四兵衛 みとしへい 萩藩士、名は芳基、藩主毛利重就のとき撫育方の本締役となり、中関塩田を開発した、三田尻古浜安養寺に追慕碑あり、安永五年没。
 山県周南 やまがたしゅうなん 藩儒、二代明倫館学頭、名は孝孺、字は次公、周南と号した、荻生徂徠の高弟、多数の俊才を育成した、宝暦二年没、墓あり、旧宅跡は萩市土原町。
 山県太華 やまがたたいか 藩儒、十代明倫館学頭、名は禎、字は文祥、半七と称した、重建明倫館に功多く、著書に『国史纂論』、『民政要編』等あり、明倫館重建碑の碑文の作者、慶応二年没、墓あり、旧宅跡は萩市堀内。 
 渡辺内蔵太 わたなべくらた 萩藩政務役、通称は久之助・広輔、名は暢、十一烈士の一人として野山獄に斬らる、元治元年没、墓あり、東光寺にも墓がある、旧宅跡は萩市平安古町。