海潮寺史概説

石州海蔵寺時代
当山に伝わる「開山不見和尚業譜」によりますと、当山は応永元年(1394)(一説に応永15年)、石州湯津(島根県温泉津町)に創建され、石州時代は湯津山海蔵寺と称し、約六百年の歴史を持つ古刊であります。
開山は、通幻寂霊禅師十哲のお一人、不見明見禅師であります。不見禅師は郷里(島根県仁多郡仁多町)に総光寺を開かれ、また、師匠の通幻禅師示叙の地(福井県武生市)に興禅寺を開かれて、応永十三年(1406)には能登の総待寺(現在、横浜市鶴見区にある曹洞宗大本山総持寺)に十九世として晋住されました。当山二世唄庵義梵禅師も各地にお寺を開かれるとともに、正長元年(1428)に総持寺六十二世となられました。
降って、慶長八年(1603)に海蔵寺に晋住された当山十二世一天大佐和向は、翌、慶長九年(1604)に、温泉津の地に創建されて以来二百年も続いた海蔵寺を長州萩に移し、寺号も総源山海潮寺と改められました。当山が温泉津から萩に移ることになったのは、戦国の乱世が深くかかわっていました。
温泉津という所は、背後に大森銀由をひかえ、その上、自然の良港に恵まれていましたから、銀山を狙う戦国武将たちにとって、温泉津攻略はまさに垂挺の的でありました。ちょうど、銀山防衛の要である山吹城争奪戦が毛利と尾子の間で繰り広げられましたとき、山吹城主刺鹿長信はその戦に巻き込まれ、ニケ月の籠城の末、遂に城内兵士の命と引き替えに自から尼子の軍門に降り、片腕として働いた高富源四郎と共に永禄四年(1561)、海蔵寺の境内で腹かき切って見事な最後をとげました。その後、結局は、銀山と温泉津は毛利の支配下となり、毛利元就公は両武将を手厚く葬るとともに、海蔵寺にも何度となく宿泊したりもしました。このような因縁から、関ケ原の戦のあと元就公の孫、輝元公の懇請により、海蔵寺は萩に移されることになったのです。

長州萩海潮寺時代
かくして、当山十二世大佐和尚は慶長九年(1604)に温泉津を去って萩に移り、海潮寺の新しい歴史が始まりました。藩主のお膝元の地に移った当山は、正徳五年(1715)、二十世大癖本了和尚の代に関三刹(徳州家康が曹洞宗の僧録所として宗務を管領させた総寧寺・大中寺・竜穏寺の三大寺刹をいう。今日の宗務庁に当る)より不見一派の僧録に任ぜられました。このことは当山の『歴世伝』に山号の意味を説明して「総源は見祖(不見禅師)の流派を総括する本源の謂と為すなり」と言うのを文字通り現実のものとしたと言えるでしょう。
これに関連して特筆されるべきことは、当山は輪住制(住持職が短期間に交替し、門派の寺院が輪次に住持する制度)をとった大本山総持寺の直末(直接の末寺)及び輪番地として、当山の住職がしばしば本山に晋住し、本山を護持した点であります。
天正15年(1587)に全国に輪番地が設けられました以降でも、前後十一度、御開山以来ですと十五度も輪住したことになります。これは不見禅師一派の中で、特別に多い回数といえるでしょう。輪番地が設置されてから、最初に本山へ輪住しましたのは、寛永20年(1643)、当山十四世英山良鐘和尚でありました。そして、輪住制が廃止される明治3年までに、20年毎に11度も当山から本山に輪住したのであります。本山へ輪住する期間は1年間(任務は75日)でありますが、輪住のためには莫大な資金を要したようでありまして(千両とも伝えられます)、そのために請状は一年も前に発せられ、資料等を用意する期間がもうけられていたくらいです。
当山二十世大擬本了和尚と二十二世逆法良遂和尚とは共に住職在任期問が長く、お一人でそれぞれ2度も本山に輪住しておられます。共にすぐれた力量を発揮されたようで、二十世本了和尚については、先に関三刹より不見一派の僧録に任ぜられたことを述べましたが、二十二世良遂和尚については、当山の山門を建立されたことを述べておきたいと思います。
残念ながら、当山の『歴世伝』の記述は二十一世までですので、良遂和尚の詳細は知られませんが、山門建立について、良遂和尚に協力した馬屋原勝忠の御子孫、馬屋原範忠氏(北九州市在住)のお話では、秀吉の時代には、馬屋原家は毛利家と並ぶ家柄であり、勝忠自身も萩五代藩主毛利吉元公の御側という立場にあったため、それまで毛利公の菩提寺(大照院と東光寺)以外には許されなかった規模の山門を、当山に建立する計面を立てて、藩主に無許可で実行に移し、出来上ったところで、あの大きな山門全体に布をかけ、殿様を散歩にお連れして、「あれはなんだ」という質問を引き出し、「お叱りを受けるので申せません」とお答えし、「そのようなことはないから申せ」と仰しゃったところで、布の覆いを取り払い、「中々立派なものが出来たな」というお言葉で一件落着したというお話です。その山門は明治七年の火災に焼失を免れ、当山の伽藍中最古を誇っています。