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なるほど法話 海 潮 音
禅 第十三話 身心脱落
前回の法話(只管打坐)で、私たちの認識の仕方は、現実のものそのものを認識するのではなく、ものそのものに自分の思いを重ねて認識していると申し上げました。
その「思いを重ねる認識」の第一歩は言葉を当てはめる行為から始まりましょう。
例えば、ここに焼き物の器があるとします。これに「茶碗」という言葉を当てはめます。「こんな茶碗」と目もくれない場合もありましょうが、「これは古そうだ。いい値で売れるかも知れない。きっと大儲けができるぞ」と思いを膨らませる場合もありましょう。
思いを膨らませているのは誰かと言えば、煩悩という心の住人です。言葉の裏には必ず煩悩が控えており、今か今かと出番を待っています。
煩悩というのは、あれはいやだ、これがいい。ずっとこのままがいい、と言った調子で、我が儘放題です。
こんなことを現実が許すはずがありませんから、煩悩と現実の葛藤で私たちは苦悩の池に放り込まれます。
そこで苦悩の池から抜け出すために、只管打坐の坐禅を通じて「ものそのもの」(正しい坐相の自分の肉体)を「非思量」というやり方でつかみ取り、それによって苦悩をもたらす「言葉と煩悩」をセットで放り投げます。
その非思量は現在のみの働きです。なぜなら過去も未来も頭の中にあるもので、共に思量(思考)に他ならないからです。
現在のみの働きである非思量、それをもたらす只管打坐は、現在という一瞬に完結した修行であり、未来の証(さとり)を待たないという意味で「修証一等」と言われます。
また「ものそのもの」(正しい坐相)を思量抜きで直接つかむ(非思量)ということ自体が「現成公案」(現実を絶対の真理として受け取る)ということではないかと思います。
このような坐禅の一瞬一瞬には「言葉と煩悩」がセットで投げ捨てられていますから、そこの所を「身心脱落」というのだと思います。
その点は、身心脱落とは何かという問いに対し、如浄禅師が「身心脱落トハ坐禅ナリ。Q管ニ坐禅スル時、五欲ヲ離レ、五蓋ヲ除クナリ」(『宝慶記』、蓋=煩悩)と答えておられることで確認できましょう。
ただ「坐禅も自然に久くせば、忽然として大事を発明し」とか「久参修持の功により、弁道勤労の縁を得て、悟道明心するなり」(『随聞記』)とあるように、身心脱落を重ねていく必要性のあることが注意されています。
更には、身心脱落の人は、坐禅以外の日常ではどうかと言えば、『辨道法』に「動静大衆に一如し」と説かれますから、自分勝手をせず他の修行者と共に行動する人であることが知られます。(『海潮音』No.230 平成十五年一月)
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