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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第十二話  只管打坐    

只管打坐(ひたすらなる坐禅)の心の状態について、道元禅師は『普勧坐禅儀』の中で「箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量。」とお示しです。

まず、「思量」とは、思考のことですが、私たちの普通の認識方法のことだと思っていいでしょう。私たちの認識は、現実そのものを認識しているのではなく、現実のものに自分の思いを重ねて認識しています。

骨董店に行ってある茶碗を手にしました。「おお、これは!」と思いが膨らみます。店主に値を聞くと格安です。しめたと思い購入しましたが、後で普通の茶碗に過ぎないことが判明します。

こんな風に、私たちの認識は現実そのものを認識するのではなく、自分の思いを認識しているに過ぎないとも言えましょう。

そのような認識の仕方は自分の都合のいいように認識し、都合のいいように展開するのを期待します。それらが裏切られると腹を立て、そして自ら苦しみます。

次に、「不思量(底)」とは、人間の思いの重なっていない「現実そのもの」を言うでしょう。その現実そのものを思量(認識)せよと仰るのですが、そのときの思量は「非思量」だとも仰っています。この非思量が只管打坐の心の内実だということになりましょう。

普通の認識では現実そのものの認識は不可能ですが、只管打坐の坐禅はそれを可能にしてくれます。まず、「現実そのもの」として自身の体を持ってきます。それを「正しい坐相」に設定し、一瞬もゆるがせにせず、「正しい坐相」をねらい続けます。

その緊迫した様子は、橋本恵光老師引用の、油を一杯にした器を一滴もこぼさずに目的地まで運べば大臣にするが、一滴でもこぼせば斬り殺すという涅槃経に出てくる話(「油断」の起源か)で想像できましょう。

こんな風に正しい坐相をねらい続けるとき、思いを重ねる普通の認識の出番はありえないわけです。心は「正しい坐相」(現実そのもの=不思量)になりきります。即ち「非思量」です。

このようにして「現実そのもの」の認識が可能になれば、それは思いを重ねる認識ではないために、裏切も苦悩も起こり得ないことになりましょう。心が現実と一枚になり、現実そのもので心が満たされているわけです。

これを禅師は「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」(『正法眼蔵生死』)とも述べておられます。文中の「仏」を「正しい坐相」(現実そのもの=不思量)の意で味わってみて下さい。 (平成14年12月)

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。