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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第十一話  現成公案    

前回は、道元禅師の説かれる「修証一等」の意味が、「修行がそのまま悟りである」或いは「修行している間が悟りである」という意味であることをお話しましたが、その修行がどんな修行であるかということについては、まだお話ししておりません。今回はそれをお話ししたいと思います。

前回の宝徹禅師の問答は、道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」の巻に出てきますが、その巻の表題である「現成公案」という言葉が、右の「どんな修行か」という問題を解く鍵になるかと思います。

「現成」とは現前成就、即ち現前に成立している事実です。「公案」とは、一般に、禅的な思想を練るために与えられる課題のことですが、元来は「公府之案牘」(官府の調書)にたとえられた公の法則条文のことで、私情を容れず遵守すべき絶対性を意味するとされています。

道元禅師は「公案」を禅的課題の意味ではなく、元来の意味で用いておられますので、「現成公案」とは、現前の事実を動かしがたい絶対のものとして無条件にそのまま受け入れること、という意味になりましょう。

ところが凡夫の私たちは、その逆をやっているということを、道元禅師は「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」と述べられます。

花は私たちが惜しいなと思っている中で散っていき、草は憎々しいと思う中で生い茂る、という意味です。

花は咲けば散り、草は生えるのが現実です。にもかかわらず、凡夫は散らないように生えないようにと勝手な思いをします。
その思いが、惜しいとか憎いといった苦悩に化けるのです。

そこを、花が咲けば喜び、散るもまた風情と感じ、草が生えれば黙々と草取りをする、そんな風に現実をあるがままに受け入れ、勝手な思いをしなければ、苦悩は起こらない道理です。

苦悩がなければ、安楽な悟りの世界です。同じことを「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」とも述べておられます。

「自己」とは「自分の勝手な思い」、「万法」とは「現実」、「修証」とは「生き方」の意味だとしますと、「自分の勝手な思いを現実に押しつける生き方が迷いであり、現実をそのまま受け入れ、自分の勝手な思いを取り下げる生き方が悟りである」となりましょう。

道元禅師は、現実をそのまま受け入れる生き方を勧めておられます。これが禅師の説かれる修行だと思います。私たちが日常生活の中で実践しうる修行だと言えましょう。(平成14年11月)

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