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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第十話  修証一等    

道元禅師が14歳で出家された当時の比叡山では、「本来本法性、天然自性身」(人間は生まれながらに仏性を有しているから、その身そのままで仏となれる)という教えが学ばれていました。

これに対し、道元禅師は「それでは何故、過去現在未来の諸仏は殊更に発心し修行する必要があるのであろうか」という疑問を持たれました。

ところが当時の高僧たちはその疑問に答えることができず、道元禅師は答えを求めて中国に留学され、如浄禅師のもとで一生参学の大事を終えられ帰朝されました。

帰朝後、お書きになった95巻の大著『正法眼蔵』こそ、比叡山での疑問に対する答えの書物と言ってよいと思います。

そして、その答えが「修証一等」というものです。常識的には、修行(修)の後に悟り(証)が得られると考えますが、修行がそのまま悟りであるというのがその意味です。

これを説明するに当たり、道元禅師は、宝徹禅師と僧との次のような問答を引かれています。

即ち、「宝徹禅師が暑さをしのぐために扇を使っていると、ある僧がやって来て、「風性常住、無処不周」(風性は常住にして、行き渡らないところは無い)であるのに、和尚は何故ことさらに扇を使うのですか、と問うたので、

禅師は、汝は「風性常住」ということは知っているようだが、「無処不周」という道理は解っていないようだなと答えたので、

その僧は、それでは「無処不周」とはどういうことですかと問うたのに対し、禅師は何も言わずに、ただ扇をあおいでいるだけだった。それに対して、僧は黙って礼拝した。」というものです。

この間答の要点は、「暑いとき、扇を使うと、涼しい」という関係に気付くことが必要です。

そして、風性が何処にも行き渡っている(無処不周)から、あおぎさえすれば風が起こつて涼しいけれども、あおがなければ暑いということです。

そこで「あおぐ」に「修行」を当てはめますと、「苦しいとき、修行をすると、安らかである」という関係が浮かび上がります。

そしてこの場合も、仏性が誰にも行き渡っている(本来本法性)から、修行しさえすれば、安らか(=悟り)となる、ということになります。

しかし、あおぐのを止めたとたんに涼しさがなくなるように、修行を止めたとたんに「悟り・安らぎ」は消えるので、常に修行が必要であり、修行をしている間だけが悟り(修証一等)であるというわけです。

ですから、私たちの日常生活のすべてが修行(=すべてが安らぎの悟りの世界)として行われていなければならないというのが道元禅師のお考えかと思います。 (平成14年10月)

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