日記  DIARY  などというのはおこがましい  日々雑感 というぐらいかな  すさ民報に 「山脈やまなみ」を書いていたことがあります     今回  それを  「草のもぢ摺り」 として 気分一新し  書き始めてみます  いつまでつづくか  だれもわかりません   お付き合いください
  
06/04/08 桜春 出会いと始まりの季節

 春三月は、別れと旅立ちの季節。春四月は出会いと始まりの季節です。それを彩るのが桜の花。

私の通った保育園に
 弥富保育園の入園式が4月5日に行われました。5番目の子であるわが娘もこの日入園しました。私も40数年前に通ったこの保育園。ちょうど私の入園のときと同じように、同じ木に桜が咲き始め、その下を通って玄関を入りました。
 そしてまた、私と同じように、入園式では笑顔も見せず、泣きもせず、話しかけてもものも言わず、じっと自分を固める姿に、親子のつながりを感じています。

手作り机を餞に
 弥富小学校の校庭も桜が満開です。10日の入学式には、3人の子が胸躍らせて入学します。その一人が、またまたわが息子です。
 わが子が入学するときは、机を手作りするという決意を固め、今年は3台目です。一番初めは4年前に作りました。2台目は2年前、そして今年3台目。ヒノキで作る机は、いい香りが部屋一杯に広がります。
 でもちょうど、最も忙しい選挙前と重なって、初めから手作りといかなかったのが後ろめたい。息子の目の前で組み立てたのが、せめてもの罪滅ぼしです。

こだわり
 この机には、一つこだわりがあります。それは、引越しのときに小さくできるように、脚を着脱できるようにしていることです。私の引越しの経験を活かしています。これから、どんなときも生活の一部として、一生使って欲しいという願いを込めています。

あつい板 頑丈に 
 市販の机は、合板や薄い板の組み合わせです。冷たい金属のこともあります。しかし、この机は厚い板で、頑丈に作っています。やる気になれば、蕎麦打ち台にも十分なります。何より、触ってぬくもりがあります。組み立てる最中から、今度の一年生と年長、新入園の子3人が、机にのぼってその感触を確かめています。
 わが子の新しい始まりの餞に父が贈る机を、しっかり使って欲しいと願うのは、親ばかでしょうか。入学の日には、桜の花を机に生けてやろうかな。

すさ民報の新しい始まりも
 新たな始まりといえば、すさ民報。今回で1000号になります。初めて選挙に出た1987年の1月から毎週発行してきました。住民のみなさんの叱咤激励が、毎週の発行を支える力でした。
 市議選挙が近づいています。すさ民報も新たな始まりの歩を期待されています。桜の花から林檎の白い花にかわる頃です。

06/03/26 町が大きくなればなるほど
     人よりルールが優先する

 
 後援会活動で旧町内を訪問しています。合併に関わる不満や意見が続出しています。その一つは子育てに関わるもの。

私自身が 5人の子を育てている真っ最中ですから切実です。

「合併までは妻が家にいても、保育園入所は定員が一杯にならない限り、問題なく許可されていました。しかし、合併して萩市になると、基準に合わないと入園できないと市役所から言われた」

確かに法律や条例では保育所入所は「保育に欠ける」ということが前提になっています。

「じゃあ幼稚園に通わせるとしたらどうしたら言い。市役所は『萩か益田に連れて行ってください』という」

40分もかけて連れて行けというのか。これでは「萩か益田に住め」ということになります。

「合併し大きなまちになればなるほど 住民よりルールが優先される」ということが この間の合併後のまちで共通しているといわれます。

こんなことでは、子育て支援も若者定住も口先だけになります。旧萩市と旧町村は、現状も役所職員の認識も大きく違います。この田舎に来たことも無い職員では、地域の事情はトテモわからないようです。

もう一つ。75歳以上の無料タクシー券の廃止には 非常に強い不満があります。行く先々で、脚の弱くなった高齢者から、何とかならんのかと切実な声が聞こえます。

「彼岸にお寺に行ったが 帰るのに50分かかった。タクシーを使うと500円 バスはちょうど良い時間が無い。歩いて帰ったが こねぇなことなら はぁお寺にはいかん。墓参りもできん」

「ぐるっとバス(地域巡回バス)はいきたい所に行けん。時間もきまっちょる。家の前に出るのも大変なそに 道まで出るのに時間がかかる。タクシーなら家から出るのをまっちょってくれるが バスは待たん」

「乗っても大回りするようじゃ なんになるか」

など様々な高齢者の声を聞きます。タクシー券サービスが、手厚すぎだと合併協議会で言われたようです。「バラマキ福祉」だと。それを1年間猶予したからいいじゃないかという感じです

では、ぐるっとバスは、タクシーの代わりになるでしょうか。タクシー券の復活が無いのなら、ぐるっとバスで補完できる運行の仕方を考えないと住民より金や行政の都合を 優先するといわれてもしかたありません。

「合併して ええことは 一つも無い」住民のこの思いにどう答えるのか。議員も問われています。

06/03/03 政策論戦してこそ議会
 一般会計予算案の質疑に対して、市長は「政策的なことは一般質問すべき。議会運営の問題だ」と述べました。
 市長も私たち議員も全て、政治家です。事務的なことも知らねばならないのは当然ですが、一番重点を置くべきは政治的なことです。まさに政策です。議会は私たち議員の主戦場。議会に提案された議案に対し、政策的な論争をしないで政治家といえるのでしょうか。
 一般質問は、市政の全般に関わって、議員が自分で選ぶことができる質問です。議案質疑は、市長が提案したものに対して行うものです。3月議会に提案される一般会計当初予算案は、必然的にすべての分野にかかわりますので、多岐にわたる質疑が交わされて当然です。それは、前述のように主に政策的質疑になります。
 委員会審査には市長が出席しません。部長・課長を相手に事務的なことを含めて細かいことまで質疑が行われています。
 議会の立場の弱さが、市長の発言に現れています。議会は、市民の声を市政に届ける場です。できるだけたくさんの機会を活用し、訴えるのが議員の使命だと思います。
06/02/17 この超高齢社会をどう支える?
 後援会の活動で、地域を回っています。今週は小川地域を回りましたが、行く先々で出会う人はみんな高齢者です。ごめんくださいと訪ねると「あんた出んさい」「おまえが出れ」「チョッと這うてきてみ」「待ってくださいよ」といって、顔を見るまでに数分かかります。どの家も同じ状況です。
 この超高齢社会をこれからどう支えていけばよいのか。差し迫った現実的な課題です。この小川、弥富、高俣は萩市の中でも最も高齢化がすすんだ地域です。特別な対策を打たなければならないと実感しています。
06年1月27日 観光とはなに?何度も訪れてもらうには

  全く新しいまちができた
 萩市観光協会からアンケートが届きました。いきなり「萩市の観光をどう考えていますか」という問があり、12問を記述式で答えるものでした。旧萩市の観光協会ですから、これまで付き合いがありません。また旧萩市の「観光5カ年戦略」についての問もありましたが、私には回答すべき基礎がありません。旧須佐町の計画について、旧萩市の議員に回答を求めるのと同じです。旧萩市の人たちにとって、「萩市」という名前が変わっていませんので、旧萩市がつづいているぐらいにしか考えていない人も多いのではないでしょうか。しかし、全く新しい市ができたという意識を行政も住民も共有しなければ、住民間に軋轢が生じて新しいまちづくりは進まないでしょう。
 そんな時に求められたアンケートには、広い面積を持ち農林水産業と観光産業が基幹産業という条件を基にした回答をしました。
 その初めの部分を紹介します。

 「リゾート」という言葉がもてはやされたのが、10数年前のバブル期でした。リゾート振興法で、ゴルフ場があちこちにでき、現萩市の田万川で完成し、旧萩で計画がありました。それで、本当にリゾートが整備されたかというと疑問です。私は、観光というのは本来の意味でのリゾートであるべきだと思っています。それは「足しげく通うところ」というものです。どうしたらできるのでしょうか。
歴史遺産 日本海 田園  山林 人々の暮らしと文化
 萩市においては、萩地区にある歴史の遺産、海沿いの萩・須佐・田万川(・阿武町も含めて)にある日本海と海産物、町村部の広がる田園山林と農林産物、そしてそこに光る人々の暮らしと文化という資源があります。
 それらを観光資源として、観光の対象にするためにどんな手法を使うのかということが課題で、観光協会をはじめ、多くの方々の努力が積み上げられていると思います。
 人々が「足しげく通ってくる」「通いたい」と思わせる努力が必要です。それは何か。
 「楽しい」「嬉しい」「気持ちいい」という言葉の感想が出てくる場所なら、何度も通う場所になるのではないでしょうか。


萩市の観光で 欠かせないもの
 わたしの観光についての基本的な考えを示したものです。
 そしてまた、ちょうど同じ時期に「山里フォーラムのんたの会」の総会がありました。阿武町福賀にある「あったか村」の支援母体です。阿武町では、いち早く農村・漁村で休暇を過ごそうというグリーンツーリズム(私はカタカナより「ふるさとツーリズム」とか「田舎ツーリズム」のほうがいいと思っています。「ツーリズム」も「楽行」ぐらいにしたらどうかな)に取り組んでいます。私は新入会員で初めて参加しました。その総会には多彩な、それぞれに魅力的な人々が集まっていました。そこで、大切なことを勉強させていただきました。これからの萩市の観光に欠かせないことでした。
高速道路ではない
 萩市には高速道路がありません。そのため、市長を初め多くの議員や経済界の人々が高速道路や高規格道路の建設を繰り返して叫んでいます。今回のアンケートにも、「萩市へのアクセスをどう思うか」という設問がありました。空港から15分、国道も渋滞の無い191号、315号、262号があるので十分と回答しました。逆に高速道路や高規格道路でせっかくの環境や景観に有害になるおそれがある、宿泊客も長門や山口に流れると指摘しました。
田舎だから残った資源
 どんな観光を考えるかということで、アクセスの問題は対応が変わります。萩市の観光の資源は、田舎ならではのものです。大企業による開発が進まなかったことで、萩市の観光資源は守られてきたのです。高速道路をつくれば、人が来るか、来ません。アクセスのいい秋吉台にはどんどん人が来るはずです。ところが秋芳町の観光は苦しんでいます。道路ではないということに早く気づくべきではないでしょうか。
人とのつながり
 のんたの会の代表は、福岡にすむ美しき女性です。彼女は「同じような田舎は福岡にもある。だけど、こうして何度も福賀を訪れるのはどうしてなのか。それは人です。ここにくれば魅力的な人に会える。魅力的な人が多いのではなく、みんなが魅力的なんです」と言われました。これだと思いました。田舎だからこそ残された、歴史遺産と自然・環境・景観そして、そこに生きる人々こそ、最大の観光資源です。
 「楽しい」「嬉しい」「気持ちいい」人々とのふれあいこそ、これからの萩市の観光で一番大切なことではないでしょうか。 
  
10月29日 スポーツの秋 楽しむことを最優先に
      歳の所為で骨折?
 スポーツの秋といわれますが、今年の秋は全てのスポーツに参加できませんでした。こともあろうに小学校の運動会で、骨折したからです。みんなが、「歳の所為だ」「若くないのに無理するな」などといいます。平衡感覚をつかさどる三半規管が老化し、鈍くなったという人もいます。しかし、本当に老化の所為でしょうか。私の三半規管は子どものころから鈍い。子どものころには乗り物酔いがひどかった。バスに乗っても直ぐ酔っていました。ひどいときにはブランコで酔っていました。大人になるに連れてバスや車では酔わなくなりました。慣れです。
三半規管でヒットしたのは
 歳の所為にされた悔しさから、インターネットで「三半規管」を検索しました。少年スポーツに関わるサイトがヒットしました。「川上コーチの少年野球コーチング」というサイトです。平衡感覚を高める練習方法の記述も興味深かったのですが、もっと注目すべき内容がありました。
アホでスカタンな指導者
 「アホで、スカタンな、指導者になりませんように。ユニフォーム着て野球する子が下手な訳が無い。下手な親やコーチが子供を下手にする。元阪急ブレーブス・世界の盗塁王・福本選手・直伝の言葉(この言葉が耳から離れない。)」。
 「スポーツ少年団は全国組織であり、生涯スポーツを楽しむためにあります。 スポーツの語源はラテン語で『苦楽を離れて楽しむ』というものです。 この生涯スポーツを楽しむための最初入り口がスポーツ少年団です。 勝敗を争う競技スポーツではありません。」
 「子供を誉めて育てよ。怒鳴るばかりでは萎縮してしまうばかりである。どなりつけて育つ子供は誰もいない。怒鳴ってばかりいる指導者は無能と見られている事を自覚すべし。怒鳴る指導者は自分の自らの指導方法の稚拙さを恥じるべし。強豪チームの監督コーチらは静かで寡黙である。」
少年スポーツの現実を見る
 息子がスポーツ少年団に入ってバレーボールをするようになり、自然と少年スポーツの現実を垣間見ることが増えました。息子の所属するチームが今年の夏、少年バレーボールの中国大会に参加しました。盆の真っ最中という、およそ日本人の感情にはそぐわない時期でしたが、蕎麦につられて出雲まで応援に行きました。
歳に関係ない 【古い指導者】
 この世界は野球に劣らず「古い指導者」がいます。それこそ歳に関係ありません。試合を見るより、その表情やしぐさを見るほうが興味深いぐらいです。広島から来たチームは、全員丸刈り頭でした。その監督は、ピンチでタイムを取ったのはいいのですが、集まった子らを前に足を組んで座ったまま、よそを向き、何も言いません。ふてくされている感じです。試合中に選手の失敗に対して怒鳴り散らす指導者は、そこらじゅうにいます。失敗するたびに選手がベンチの監督の顔色を伺います。指導者自身が冷静にビデオで自分の姿を見て欲しい。日常生活にはない姿のはずです。
なぜ怒鳴りふてくされるのか
 なぜ彼らはあのような態度を取るのでしょうか。私には理解できません。子らの成長を願っているからなのか。それなら、逆効果を指摘されればすぐに改めることができるはず。感情的になっているからなのか。冷静で教育的配慮がなければ指導者失格。勝負にこだわるからなのか。スポーツ少年団は勝敗を争うものではない。勝てば指導者自身の名声と満足が得られるからなのか。負ければ逆なのか。どう考えても「怒鳴る」「ふてくされる」余地はありません。
スポーツの指導者とは
 希望がわいたのは揖屋スポーツ少年団の若い指導者を見たときです。4年生主体で2年先を見据えているのか、頻繁に選手交替をして満遍なく選手を使っています。練習も決してきついボールではなく、やさしいボールで基本をしっかり反復させています。指導者がニコニコして、失敗した選手を励ましていました。勝ち負けにこだわらず、チームのレベルアップを主眼にしているのがわかりました。
楽しんでこそスポーツ
 スポーツは「苦楽を離れて楽しむ」ものです。とくに少年期のスポーツでは「楽しむ」ことが最も優先されるべきです。しんぶん赤旗日刊紙木曜日に連載される永井洋一さんの「子どもとスポーツ」も参考になります。
 自業自得ですが、自分のふつつかで、今年の秋はスポーツの楽しみが奪われてしまいました。しかし、その大切さを実感した秋でもありました。 


 7月25日

郵便局が民営化されたら田舎は

「花のことは花にきけ」 今年の生涯学習発表会に講師としてこられた辛坊治郎さんの色紙に書かれた言葉です。辛坊さんは読売テレビの解説員で、日本テレビのズームインスーパーという朝の番組で司会をされています。

マスコミの世論への働きかけ

 郵政民営化法案が7月5日、衆議院でわずか5票の小差で可決したことから、翌日の朝ニュース番組をみていました。たまたま辛坊さんの番組だったのですが、マスコミをつかった巻き返し、世論への働きかけを感じました。衆議院で5票差まで迫ったことは、国民の批判が非常に強いことを反映したものです。このままでは参議院での可決、法案成立は非常に厳しいという見方が圧倒的です。そのため、危機感を持った民営化推進をはかる側(日本の銀行業界とアメリカ資本)は、マスコミを使った世論への働きかけをすぐに始めたというところです。

 辛坊治郎さんは、民営化=良いことという前提に立っているような発言で、このままでは民営化が危ういと言っているようでした。

 この番組をはじめ、次々と郵政民営化法案のゆくえがマスコミで論じられています。その多くは、民営化=賛成 を前提に、法案が可決か、否決かという議論に終始しています。本来マスコミが行うべきことは、法案に従って郵便局を民営化したら国民にとってどんな影響があるか、どんな利点があり、どんな弊害があるか、具体的に現実的に示すことでは無いでしょうか。

田舎で郵便局の果たす役割

 萩市内にはたくさんの郵便局があります。過疎化が進むこの地域の中で、郵便局が果たす役割は、都会に住む人びとよりも一層重要です。民営化でリストラが進むことは間違いありません。だから、たくさんの自治体議会で民営化反対の意見書や決議が挙がったのです。その数、  年末までに、  都道府県議会中  都道府県(93.6%)。 2950市町村議会のうち2605市町村議会(88.3%)。

 もし弥富から郵便局が無くなったら、高齢者は年金を受け取ることができません。日々の貯金の出し入れができません。郵便が届くのが遅くなります。独居老人は1日に誰とも話をすることがない日々が続くかもしれません。地域の情報も届きません。

 農協があるじゃないと言う人もいます。でも金融窓口開設には3人以上の職員配置など厳しい条件がつけられました。また、減損会計も導入され、収益の見込めない施設・土地は損失計上しなければなりません。農協も収益性の低い過疎地では、存続できないように網がかけられているのです。弥富といわず阿武・萩の農協の支所がいつなくなるか分かりません。協同組合でさえそういう状況ですから、郵便局が株式会社になれば、一層、利潤追求、採算性が優先されます。過疎地の郵便局の廃止は火を見るより明らかです。過去の民営化で国鉄も電電公社も田舎から去って行ったことは記憶に新しい事実です。

誰のための民営化なのか

 何のため、誰のための民営化なのか。民営化で誰が一番利益を上げ、誰が不利益をこうむるか。枝葉だけにこだわって見るのではなく、その本質、根幹は何なのかを見極め、国民に知らせるのがマスコミの義務です。政府のお先棒かつぎでは、戦前と同じ過ちを繰り返します。

 民営化で過疎地の郵便局がどうなるか、住民がどんなに不便になるか、実際に現地に出て取材し、ことの本質を現実的に示してもらいたい。草深い田舎の事情を伝えるのもマスコミの仕事。辛坊さんには、花ならぬ「草のことは草にきけ」という言葉を贈りたい。


 5月20日









芽が出た直後の稲の苗
畦塗りと担い手   「非効率」な農家の仕事

 畦塗りがやっと終わりました。よその家の田んぼにはもう稲が植わっています。5月に入って荒起こし、畦草刈、荒代掻き。その合間にトウモロコシの植え付け。もちろんリンゴの摘花、摘果も。これから植代掻き、田植となります。

畦塗りは水田作業の最重労働です。我が家の田んぼは6反全て畦を塗ります。他に請け負っている4反は圃場整備済みの田んぼで畦塗りはしません。4反で角が8つしかありません。ところが我が家の田んぼは6反で角が36あります。三角や変形の田んぼも含め9枚です。その畦を土を上げ、たたいて塗ります。「百姓は昔からこねぇやって畦を塗ってきたんじゃろうのう」と塗り上げた畦を見ながら独り言を言いました。

まさに政府が最も「ダメ」だという「非効率」な田んぼです。大規模化などとてもできません。

今年は集落の中で、5反ほど稲の作付けができなかった水田が出てきました。何とかつくる人を探してほしいといわれていましたが、できませんでした。我が家の田んぼと同じような状況です。畦を塗らねばなりません。重労働は敬遠されます。私も何とかしたいと思いましたが、現状では手が回らないことは確実です。おまけに米価は不作でも下落して、60`1万円時代がささやかれています。

17日に04年度農業白書(「食料・農業・農村の動向」)が閣議了承されました。食料自給率(カロリーベース)の目標達成を2015年まで5年先送りすることや、農業生産を大規模経営に集中することを強調しています。一方で消費者が求める安全な農産物の安定供給のために「国産の強みを活かした生産体制」も強調しています。そして、事例を挙げています。

安全安心な農産物は誰が作る

はて、「消費者が求める安全な農産物」は一体誰が作っているんでしょうか。事例に挙がっているものも直売市と学校給食の連携、商店街への産地直売所など、決して「大規模経営」「担い手」だけではありません。逆に、それに属さない小さい農家や地域が自分達で地域の条件に合わせて築いたものがほとんどです。盛んに「地産地消」を説いていますが、地産地消を進めてきたのも、小さい農家や地域の自主的な活動です。政府が進めてきた、大規模化、法人化では決してありません。

「非効率」といって真っ先に切りすて、完全に息の根を止めようとしている零細農家こそが「消費者が求める安全な農産物」の生産者ではないのでしょうか。

苦しむ大規模農家

大規模農家も苦しんでいます。大規模になるほど農産物価格の下落の影響をまともに受けるからです。02年の農業所得は、5年前に比べ稲作で26%、露地野菜18%、施設野菜26%減少しています。

我が家では、月末、友人達=消費者を呼んで田植を行います。10数年間続けている行事です。最初に来た子たちは、ずいぶんうまくなりました。よちよち歩きだった子も社会人、高校生になりました。うちの米でこんなに大きくなったんです。やめられません。続けたいと思う人が担い手であり、消費者の命を支え、農村の活力の源です。規模の大小で差別する農政では、食料も農業も農村にも明るい明日は見えないでしょう。

「さてっと、今度はどこかの商店街で産直しようかな」と考える「非効率な」農家です。


 4月13日








須佐・北谷 木村邸の枝垂れ梅

何を怖がっているの    


 クラボウの社員に対する思想差別是正を求める人権裁判で、裁判所は賃金差別を是正する和解を勧告していましたが、3月31日クラボウが「遺憾の意」を表明し、「今後、憲法、労働基準法に従って従業員を公平・公正に取り扱う」との内容で和解が成立しました。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-01/01_01.html
 商業新聞でも報道されていましたので、目に留まった方もおられるのではないでしょうか。

誰も分かっているはず 思想信条で差別してはならないのは

 憲法には思想信条の自由があるとはっきり示されています。その思想信条によって差別してはならないと言うのは、民主主義社会の原則です。こんなことをことさらいわなくても誰もそれを認めているはずです。
 なのになぜ、共産党を差別し攻撃するのでしょうか。「共産党が怖い」からなのでしょうか。今回はクラボウと言う大企業で行われていたものですが、私たちの日常の生活の中でも、「ありゃあ共産党じゃけえのう」「どうせ共産党じゃあや」「なして共産党なんか」など、共産党に対して非常に差別的な態度をとる人がいます。特に萩市を含む山口県北部のではよくあることです。

「共産党系」と言うだけで「思考停止」 

 私たちがどんな発言をしても、「共産党が言うこと」といって、まともに取り合わないこともたくさんありました。
 萩市で数年前、新日本婦人の会が萩市議会に出そうとした市民病院に小児科設置を求める請願は、誰も紹介議員になりませんでした。その理由は、新日本婦人の会が「共産党系」と言うことだったそうです。そういえば、わたしの田んぼで毎年行っている田植のときにも思い当たる節があります。
 ちょうどある報道関係者が取材に来ていましたが、参加者が新日本婦人の会ときくと取材をやめてかえっていきました。私が、どうしてかと聞くと「共産党関係としてリストに載っているから」と答えました。「共産党系」というリストがあるということも驚きですが、それで取材はしないと言うのも異常な話です。

(この話は後から謝罪がありました。すぐに認識を改めた本人の柔軟性と指導された方々の良識を、私はすばらしいと思っています。)

 「共産党系」というのは共産党員がたくさんいる組織、団体のことをいうのでしょうか。新日本婦人の会は、政党から独立した団体です。思想信条の自由を尊重する団体で、共産党支持を押し付けるようなことは全くありません。一致する要求では、どんな団体とも共同することは当然です。
 「共産党系」と言うだけで、思考停止状態です。内容がどんなものなのか、全く判断しないわけです。ことの良しではなく、名前だけでの判断です。それは固定化した観念で物事を見ると言うことでしかありません。
 今でこそ、部落差別、ハンセン病差別は間違いだということが、共通の認識になってきています。しかし、こういう差別が、社会の発展をどれだけ阻害し、人々を苦しめてきたでしょうか。

差別=支配の道具      

 「差別」=支配の道具というのは、歴史の常識です。日本共産党に対する「差別」も、全く同じです。「共産党系」とするだけで、思考停止させれば、支配者にとって有利な状況が作り出せるわけです。逆に言えば、「支配される側」はいつまでも不利な状況だと言うことです。と言うことは「共産党は怖い」と言うのは、支配する側にとっての話なのではないでしょうか。
 新日本婦人の会が出そうとした市民病院への小児科の設置を求める請願が、議会に取り上げられなかったことで、対策を怠ってきた行政は時間稼ぎをすることができたわけです。その間、困ったのは市民です。しかし、ことは誰もが認める筋の通ったことだったので、無視することはできません。この3月末には病棟の増築まですすんでいます。
 結局、市議会は「新日本婦人の会=共産党系」と言うだけで、誰も紹介議員にならなかったわけです。請願の内容は、その後の市や市議会の動きと同じなのですから。これが思想差別ではないのでしょうか。良識があるといわれる市議会でそういう状態なのです。


反共意識をなくすことは住民の利益に 

 共産党は、「住民が主人公」を自治体政治の基本的姿勢として掲げています。住民にとって利益のある提案を率先してすすめています。「共産党じゃけぇダメ」と切りすてることは、「住民の利益はダメ」と切りすてることになりませんか。
 逆に、共産党に対する条件反射的な「反共意識」をなくすことは、住民の利益につながることだと言えませんか。

 
 3月20日

卒業式


 教育とは何かを見た鈴野川

 たった一人の卒業式。鈴野川小学校で3年ぶりに行われました。花粉症でもないのに、初めから目が赤く染まる。先生の、家族の、地域の人々の思いを感じたからです。
 校長先生の式辞がすべて凝縮しています。送る言葉として校歌から平和と文化、そして失敗から学ぶことで前進する、失敗を恐れず前に進むことが大事だといわれました。
 平和とは郷土の先人の苦しみがあったからこそ守られていること。だからこそ、命を大事にしなければいけないと。
 自分ですいた和紙で作った卒業証書。貧しいがゆえに紙を漉き、その紙で作った紙紬で服を作り、その貧しさを過ごしてきたこと。そうやって培った先人の技が、文化であり、それが地域を支えてきたと述べられた。これは、地域の人々への深い愛情そのものです。
 99%の失敗と1%の成功。試行錯誤を繰り返すことから発見がある。失敗を恐れるな。失敗の反省から、もう一つ上の段階にすすむことできるという励まし。
 そして最後に「ありがとう」と述べられた。校長先生が教え子にお礼をいって送り出す。その言葉を受け取った子が感じないはずがない。
 小さな学校では子どもの教育ができない。不十分であるなどという人々もいます。そういう人々にこの卒業式をぜひ見て欲しかった。これほど愛情の詰め込まれた教育環境があるでしょうか。
 教育とは何か。すばらしい実践を見せていただきました。



 優しさあふれるわが母校

 
わが母校の弥富小学校の4人の卒業式も気持ちよいものでした。わが子がいるので、うまくやるか気をとられ、鈴野川のようには目の変化はありませんでした。しかし、同じ学び舎で暮らした友を大切に思う気持ちが込もり、優しさがあふれていました。卒業生一人一人に、在校生が言葉を掛ける。一人一人が大切にされています。
 担任の先生より担任らしく涙した女先生。一番後ろに並んでいた、5年生の男の子が、大粒の涙を15滴おとした光が印象的でした。わが母校いつまでもこの優しさを大切にして欲しい。



 子を責めまい 我を振り返ろう 

 そして最後は須佐中学校。12日にありました。対面式卒業式。雰囲気がとてもやわらかい。軽い障害をもつ卒業生を見る先生や親の優しく、そして嬉しそうな表情が、いちばん輝いていました。
 卒業生が「仰げば尊し」、在校生が「蛍の光」。歌わない。それを見て、人々は後で子らを責める。親は「なぜ歌わんのか」と。先生は「元気がないでしょう」と。来賓は「これはいかん」と。
 大きな声で歌った子もいました。彼はなぜ歌えたのか。他の多くの子がなぜ歌えなかったのだろうか。子らを責める前に、私たちが振り返る必要がありはしないでしょうか。
 「仰げば尊し」は子らには、歌えなかったのではないか。意味がわからない。意味がわかればいっそう歌えない。「わが師の恩」などないと子らは暗に否定したのではないでしょうか。
 もしこれが「旅立ちの日に」や「旅立ちの歌」「巣立ちの歌」だったらどうだったでしょうか。
 子らを責めることなかれ。親が子をしかるのは当然。この場合もそうでしょう。しかし、子らの気持ちを素直に発現させる努力を怠った自らの不足をこそ、責めようではありませんか。
 「来年こそ」。卒業した子らに次の卒業式はなく申し訳ないのですが、彼らの無言の抵抗を糧として、新しい学校づくりに親も教師も地域も力をあわせ、来年こそ気持ちを素直に表した卒業式を見ることができるようにしたいものです。それが、今年の卒業生への罪滅ぼしではないでしょうか。
 教育改革とは、大人の改革です。