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なるほど法話 海 潮 音      


禅 第9話  諸悪莫作    

道元禅師の『正法眼蔵』諸悪莫作の巻に、中国唐代の詩人白楽天と道林禅師の次の問答が引かれています。

 白楽天「仏法の核心は何ですか」
 道林禅師「諸悪莫作、衆善奉行」
 白楽天「そんなことなら三歳の子供でも言うことができますよ」
 道林禅師「三歳の子供が言い得ても、八十の老人でも行うことは出来まい」

という問答です。この問答に対して、道元禅師は白楽天は大詩人かも知れないが、仏教のことが分かっていないから「そんなことなら三歳の子供でも云々」などと言うのだと述べておられます。

白楽天はどのように仏教が分かっていないというのでしょうか。問題は「諸悪莫作、衆善奉行」の意味ですが、この言葉には「自浄其意、是諸仏教」という続きがあります。

これを普通の書き下し文として読みますと「諸悪を作ること莫かれ、衆善を奉行せよ、(そして)自ら其の意を浄む、是れ諸仏の教えなり」となります。

これは白楽天のいうように、さほど難しいことではなく、当たり前のようにも思えます。ところが道元禅師は「諸悪莫作」を「諸悪を作ること莫かれ」とは読まず、「諸悪は莫作なり」と読んでおられます。ここにはどのような意味があるのでしょうか。恐らく善悪の捉え方が問題となるのでしょう。

「盗み」は悪ですから、反対の「施し」は善です。でも仏教では、人に物を施すとき「私はあなたにこれこれをあげた」という意識があっては善としての施しとはならないと説きます。

特に「私」に執着する心を「我執」(自己中心的な心)といい、この我執がある限り「真の(善なる)施し」とはならない訳です。それでも「施し」の実践が説かれるのは、その実践の積み重ねで我執をなくそうとするからです。

また悪についても、その奥に我執が横たわっています。世の中の規範を無視してまで我執を満足させようと振る舞うとき、悪が発生します。逆に、盗んだ物を自分の物にせず、貧しい人々に分け与えた鼠小僧は悪人とは表現されていないようです。

いずれにせよ、我執を満足させようとするから悪が発生し、その我執がなければ、悪は起こり得ないことになりましょう。古い注釈書(『聴書抄』)が「莫作」を「作ること莫(な)し」と読むのは、我執を克服した人にとっては「諸悪は作ること莫(な)し」となるからです。道元禅師の「諸悪は莫作なり」の意味はまさにこのような意味だと思います。一段高い次元が問題とされているということでしょう。(平成13年10月)

音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。