なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第83話  御愛読感謝
    
 昭和五十八年十二月号から始めました本紙(木村隆徳執筆)も今回で終了致します。長らくの御愛読、誠に有り難うございました。今後は海潮寺新命住職延崇和尚が引き継ぐことと思います。最後に当たり、性懲りもなく蛇足を加えます。

 曹洞宗の高祖と仰がれる洞山良价禅師(八六九年寂)の悟りを述べた「過水の偈」に

 渠今正是我 (渠〈仏〉は今、正に是れ我)
 我今不是渠 (我は今、是れ渠〈仏〉ならず)

とあります。

前句は真の坐禅の時であり、後句は偽の坐禅の時と考えます。

偽の坐禅とは「俺は坐禅して仏になってやるぞ」という思いでする坐禅です。「坐禅をして仏となる」のどこが偽物かと思われるかも知れませんが、「仏となる」という思いでする坐禅は真の坐禅とは言えず、偽の坐禅と言わざるを得ないのです。

ですから道元禅師は真の坐禅のことを「只管打坐」(ひたすらに坐に打ち込む)と言われます。

何かを思って坐るのではなく、ただただ坐に打ち込むのです。

この「何かを思って」というところを削り取らなければなりません。このことが誠に重要なのであります。むしろ坐禅とは「何かを思って」を削り取ることと言ってもいいかも知れません。

足を組んで坐ることが坐禅ではなく、思いを削り取ることが坐禅なのです。椅子坐禅をしていますと、その点がよく分かります。

思いが削り取られた状態を「非思量」と言い、「坐禅は身心脱落なり」とは、坐禅は思いを削り取ることなり、という意味であると考えます。

もし、真の坐禅(ひたすらに坐に打ち込む坐禅)をしていて思いが削り取られた状態に達したとき、「脱落身心」(脱落した身心)と言われます。この状態を述べた句が先の「渠今正是我」でありましょう。悟りの状態であります。

この状態は、ひたすらに坐に打ち込む坐禅をしているときに、外からやってくる状態なのだと考えます。「外からやってくる」と言っても、ボーと坐っていてやってくる訳ではありません。「ひたすらに坐に打ち込む」ことによって「思いが削り取られた状態」(非思量)に達するが故に、外からやってくるのであります。

坐に徹して思いがなくなるとき、仏が我が身にやってくるのであります。道元禅師の「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」(現成公案)の句は、そのあたりが示されていると言えましょう。

このようにして悟った人は、あるべき日常生活を淡々と生きることができ、そこには争いのない世界が開けることでありましょう。 (令和二年十二月)