なるほど法話 海 潮 音
禅 第82話 癡達和尚の大悟
今回は本了和尚のお弟子である兀山癡達和尚(当山二一世)の大悟について考えます。『歴住伝譜』には次のようにあります。 後に、既にして父母を帰省す。因に大癡了公(本了和尚)に見えて、 即ち問う、「如何なるか是れ仏向上の事」。 了曰く、「早朝に喫粥す」。 師(癡達和尚)曰く、「与麼(そうである)ならば、人々(誰も)欠少無し」。 了曰く、「未在、更に道え」。 師、口を開かんと擬す。 了、払袖して方丈に帰る。 師、此に於いて恰も醍醐(最上の牛乳精製品)を飲むが如し。 「仏向上の事」ということが問題になっているわけです。 まず『禅学大辞典』を見てみましょう。「仏は仏教修行の理想であるが、真の修行はこれに執着することなく、仏をも超えた境界であること」とあります。 仏になろう、仏になろうと、仏になることに執着してする修行は真の修行ではなく、「仏になることに執着しないでする修行」のことを「仏をも超えた境界であること」と説明されているのです。これが「仏向上の事」ということになりましょう。 これはあくまでも言葉の説明に過ぎませんが、だいたいの方向性は見えてきたかと思います。 『歴住伝譜』に戻りますと、癡達和尚が「如何なるか是れ仏向上の事」と問いますと、本了和尚は「早朝に喫粥す」(早朝に粥を食べた)と答えます(禅寺では朝は粥、昼は飯と決まっています)。癡達和尚は「そんなことなら誰だってそうしている」と言い返します。 本了和尚に「もっと言え」といわれて何か言おうとしたところで、本了和尚に帰られてしまうその時、癡達和尚は、「ああ、そういうことか」と悟られたというのです。何を悟られたのでしょうか。 右の問答を再度点検します。「仏向上の事とは」の問に対して「早朝に喫粥す」が答とされます。これは禅寺の日常生活の一コマです。禅寺の日常生活全体を代表しているでしょう。そうしますと「仏向上の事」=「禅寺の日常生活」となります。 しかしながら、「禅寺の日常生活」を如何に行じるかが問題です。仏を理想として追い求めるのを止め、自らを仏として禅寺の日常生活を淡々と行じるとき、それを仏向上の事というのではないでしょうか。 ただ「仏として行じる」が気になるかも知れません。道元禅師の「わが身をも心もはなちわすれて、仏のいへになげいれて(坐禅に徹して脱落した身心を実体験して)、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき(禅寺の日常生活を淡々と行じるとき)、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」という有名な言葉を信じてみてはいかがでしょう。 (令和二年十一月) |