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禅 第80話  義栢和尚の大悟
        
 今回は大達和尚のお弟子である義栢本節和尚(当山一九世)の大悟について考えます。『歴住伝譜』には次のようにあります。

 長じて雲遊(遍歴)し、達公(大達)に諸岳(能登総持 寺)に於いて見ゆ。
 即ち問う、「如是の心身、何時 か解脱(悟り)せん」。
 達曰く、「如是の心身、何時 か解脱せざる」。
 師、言下に旨を領じて作礼して曰 く、
  「昔日、錯りて途中に向って求む。今日、見来 たれば火裡の蓮」。
 服勤(服し勤める)すること数霜(数 年)なり。

義栢和尚の「あるがままの私の心身はいつ悟りますか」という質問に対し、大達和尚は「あるがままの汝の心身が悟っていない時があるのか」と答えました。

そこで義栢和尚は言下に悟ったというのです。恐らく「人間は誰でも本来悟っている」と悟られたのでしょう。その悟られたことを詩を以て述べたものが

 「以前は誤って悟りに向かう過程(途中)として修行していましたが、実は修行の中  に悟りがあるという誠に不可思議なこと(火裡の蓮)に気付きました」

というものであります。

「修行(修)の中に悟り(証)がある」とは「修証一等」といいます。道元禅師は『正法眼蔵』弁道話の巻で「仏法には、修証(修行・悟り)これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり」と説かれています。

私どもは修行を重ねて最後に悟りに到達すると考えますから、「修行=悟り」とは考えません。

しかし物事の成長過程はそうではありません。たとえば、「種から芽が出る」といいますが、この場合、種が徐々に水分を吸収してふくらんでいきます。最後に突然に芽が出るのではなく、少しずつの変化の積み重ねによって芽の形となるのでして、変化の一瞬一瞬の中に原因と結果が含まれていると考えるべきでしょう。これは修証一等の考えと同じといえないでしょうか。

現実の変化の様子を私どもが誤るのは、「種」とか「芽」とかという言葉によって捉えようとするために、このような誤りを犯してしまうのだと思います。

本了和尚の賛も見ておきましょう。

 「昔日も錯り今日も錯れり、
  艶然として綻ぶ火中の蓮。
  芳を聯ね芬を敷いて郁々たり、
  蜂蝶を煩わして空拳を弄す」
 (昔日は誤ってしまったが、今日はそうではない。
  にっこり笑って咲き綻ぶ火中の蓮華。
  何とも言えないよい香りが一面に漂い、
  蜂や蝶〈多くの修行僧〉がやって来て手で払う〈お世話する〉のが忙しい)

この賛は当山二〇世本了和尚の最後の賛となったものです。(令和二年九月)