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なるほど法話 海 潮 音
禅 第 8 話 心塵脱落と身心脱落
かって、高崎直道博士(現鶴見大学学長)は、道元禅師の悟り体験を表す「身心脱落」の句は、元来は、「心塵脱落」という句だったのではないかという問題を提起されました。今回は、この間題を引き合いに、「身心脱落」の意味を考えてみたいと思います。
道元禅師が中国留学の析り、如浄禅師に「身心脱落」の意味を問うたとき、如浄禅師の答えは「身心脱落(心塵脱落)とは坐禅なり。祇管に(ひたすらに)坐禅するとき、五欲(煩悩)を離れ、五蓋(煩悩)を除くなり」でありました(『宝慶記』)。この如浄禅師の答えの中の「身心脱落」が元来は「心塵脱落」であったのではないかというのです。
「心の塵」とは煩悩のことですから、文意はこの方がスッキリします。一方、道元禅師は「身心脱落」の内容を「自己をわするる」ことであり、「万法に証せらるる」ことであると説かれますから、如浄禅師の「心塵脱落」とはいささか異なるようで、先の高崎博士は「この〈身心脱落〉という表現が〈心塵脱落〉に比して、道元の哲学の深さを倍加したことは間違いない」と述べておられます。
そこで、「心塵脱落」から「身心脱落」への深まりを、本誌七月号の「心を空っぽにする」という考え方を使って探ってみましょう。
あるがままの現実をそのまま受け入れることが出来れば、悩み(苦)は起こらないわけですが、そのためには心を空っぽにしておく(心に充満している煩悩を取り除いておく)必要があるわけです。これが「心塵脱落」です。
ところで、一旦尿の検査をしたコップは、洗剤で洗い熱湯消毒をしても、それでピールをおいしく飲むことは困難です。しかしどんなに汚れても自分の両手は石鹸で洗いさえすれば、なめることだって出来ます。コッブと自分の両手とどこが違うのでしょう。それは自と他の違いです。
自に対しては、きれいに洗えばきれいであると、あるがままに認められるのに、他に対してはそれが素直に出来ないわけです。そこで、他に対しても自と同じようにできればよいわけで、それができる悟りの境地が、自己をわすれ、万法(=他)に塗りつぶされて、他一色になる「身心脱落」でありましょう。貪瞋癡の三毒煩悩で言えば、貪瞋の脱落が心塵脱落に当たり、癡(無明)の脱落が「身心脱落」に当たるかと思います。(平成12年8月)
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