なるほど法話 海 潮 音
禅 第78話 見外和尚の大悟
今回は月海和尚のお弟子である見外良穗和尚(当山一七世)の大悟について考えます。『歴住伝譜』には次のようにあります。 空(義空和尚)、生平、百丈野狐の話を挙示す。或る 時、方丈に上がりて大いに叫 んで曰く、「我(見外和 尚)会せり、我会せり」。 空曰く、「作麼生(どのよう に)か会す」。 師(見外)曰く、「堕すや。脱すや。空裡の鳥 跡は、不昧不落にして、夢中に夢を説 く」。 空、笑 いて曰く、「未在、未在(まだまだ)」。 師、憤然とし て、乃ち装いを束ね、遍く諸方の宗匠(禅門の指 導者)を叩く。 甲辰(一六六四)の秋、空公を帰省す。 空、大いに喜ぶ。 まず、「百丈野狐の話」について概略を述べておきます。仏教では善因善果(善いことをすれば善い結果がもたらされ)・悪因悪果(悪いことをすれば悪い結果がもたらされる)という因果の理が説かれます。 この道理に反して不落因果(因果の理に左右されない)と答えたある老僧が野孤(キツネ)の身に生まれてしまい、そのキツネが野孤の身を何とかして脱したいと、百丈禅師に頼んだところ、百丈禅師の「不昧因果」(因果の理はあきらかだ)という一言で悟り、野孤身を脱したという公案(禅の課題)です。 そこで見外和尚はこの話に対してどのような理解をされていたかを見てみましょう。 まず、「堕すや~不昧不落」を現代語訳してみますと「因果に堕するも、因果を脱するも、鳥が空を飛んだ跡のようで、因果の道理ははっきりしているようでいて、それに縛られることはない」となりましょうか。 不落因果と不昧因果を明確に区別して理解されていない態度が見受けられます。 道元禅師の『正法眼蔵』深信因果の巻には「不落と不昧と一等にしてことならず、とおもへり、これによりて、因果を撥無せり」とありますので、見外和尚は義空和尚により「未在、未在」といわれることとなったのでしょう。 しかしその後、見外和尚は奮起して悟られ、月海和尚の法を嗣がれています。それでは見外和尚の悟りの中身はどうでしょうか。 本了和尚の賛に「刹那際の脱」(刹那〈一瞬〉の際に脱す)とあります。どのような意味でありましょうか。道元禅師の『正法眼蔵』発菩提心の巻に「もし刹那生滅せずは、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず」とあります。 これは悪因悪果であれ努力次第で善因善果たり得ることの原理が述べられているものと思います。見外和尚は道元禅師の説かれる「刹那生滅の道理」を悟られたものと思われます。(令和二年七月) |