なるほど法話 海 潮 音
禅 第77話 月海和尚の大悟
今回は義空和尚のお弟子である月海良珊和尚(当山一六世)の大悟について考えます。『歴住伝譜』には次のようにあります。 時や八月十三日、天水一碧、明月朗然たり。 師、月 に坐して吟詠するに当たりて、忽爾(たちまち)として省す。 乃ち曰く、「天上の月と、水裡の月と、撑著して始めて知る、倶に光影なることを」。 此に於い て、自ら月海の字を以てす。 右によりますと、月海和尚は仲秋(陰暦八月十五日)の前々日、空も海も真っ青の快晴の日に、夜になって明月を愛でながら一句詠まんとするや悟るところがあり、それを詩にして「天上の月と、水影の月と、両者比べて初めて知る。共に光影に過ぎないことを」と述べられました。 天に耀く月は本物の月であり、水面に映った月は本物の月ではなく水面に反射した影である。このように私どもは思っています。 しかし、月海和尚は天空の明月を愛でながら、合わせて水面に映る月影を見ていて、水面に映る月影だけが光影なのではなく、天空に輝く月も実のところ光影を見ているに過ぎないことを悟られたのであります。 恐らく月海和尚も熱心に坐禅をされた方であったと思われます。私たちが物を見るとき、その物をありのままに見ていると信じ切っていますけれども、くらい夜道を不安げに歩いていると道におちていた縄が蛇に見えてぞっとしたりします。心の妄念がそのように見せているといえましょう。 本了和尚は賛の中で「鯨呑みて海乾き、珊瑚の林秀づ」(鯨が海水を呑み尽くして海乾き、珊瑚の林が秀でている)と述べておられますが、これはどのような意味でありましょうか。 これとほぼ同文を含む一節が『宏智広録』巻一に「言語道断・文字性空、這裡に到って謂つべし、鯨海水を呑み尽くして、珊瑚の枝を露出す」とあります。 これによれば「鯨海水を呑み云々」のたとえは「言語道断・文字性空」を解りやすく述べたものと理解でしましょう。入矢義高監修・古賀英彦編著『禅語辞典』では「鯨海水を呑み云々」を「いっさいの妄念がぬぐい去られて、真実そのものが輝き出る」と解りやすく説明しています。本了和尚の賛もこの意味で述べられているものと思います。 そういたしますと、月海和尚が、天上の月も水裡の月もともに光影にすぎないと知ったということは、私たちは何を見ても全て光影を見ているだけであり、光影は真実(ありのまま)ではなく、そこに私たちの思いが含まれているということでしょう。 思いを排除する坐禅を勧めておられるように思えてきます。(令和二年六月) |