なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第76話  義空和尚の大悟
     
 今回は良鐘和尚のお弟子の義空良信和尚(当山一五世)についてですが、伝記には大悟に関する記述はほとんどなく次のようにあるのみです。

 十三にして白岩禅師に依りて、童子の役を執る。長ずるに及んで円頂(剃髪)し、  毘尼法(戒)を受く。 法を英山鐘公(良鐘和尚)に嗣ぐ。生れながらにして仏乗を信 ずるを以て、良信と名づく。岩公、辞世して、鐘公に侍すること久し。

右の記述では義空和尚が良鐘和尚のもとで悟ったことが知られるのみであります。そこで海潮寺住職となった最初の説法を見てみましょう。次のようです。

 仏祖単伝の妙事、烏亀(亀)、倒に天に上る。
 衲僧受授の心印、鼻孔裡に気を出す。      
 人々、法王城(仏国土)に遊戯(自在に往来)し、  
 箇箇、妙喜国(仏国土)に安住す。

ここには何が説かれているのでありましょうか。
まず、「仏祖単伝の妙事」(仏祖から仏祖へそっくり伝えられた不思議なる事)とは、
「烏亀、倒に天に上る」(水中に住む亀が逆さまに天に上る)が如く人知を超えた不思議なることであり、
それは「衲僧受授の心印」(納僧〈私、すなわち義空和尚のこと〉が師から受け継ぎ、弟子に授けるところの仏心)であり、
それは「鼻孔裡に気を出す」(鼻で呼吸をするように人間の本来の姿たるもの)すなわち本来の面目である。
人々は仏国土(法王城)に自在に往来するし、
その人々の箇々の本来の面目は仏国土(妙喜国)に安住している、
ということが説かれているわけですが、直訳的でしっくりこないかと思います。

仏祖から仏祖へ伝えられたものとは義空和尚が師から受け継ぎ弟子に授けようとしている仏心であり、本来の面目といわれるものであります。

それは不思議なものとされますが、意味するところは人間的思量を排除したところのものであり、それを「仏心」と言ったり、「鼻孔裡出気」(人間性を排除した本来の姿、本来の面目)と表現したりするわけです。

「人々、法王城に遊戯し」というのは坐禅をすることだと思います。坐禅とは身口意の三業(身体的・言語的・意識的行為、これらで全ての行為を意味する)にわたって人間的行為を排除することであります。

このような坐禅をすることは、人間的行為が全て排除されるのですから「仏の行為」といえましょう。

それが人間の本来の姿であり、「箇箇、妙喜国に安住す」(仏国土に安住する人々の箇々の本来の面目とぴったり一つとなる)と説かれるように、全体として坐禅というものの内実を画いて見せたのだ、と言えましょうか。(令和二年五月)