なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第74話  白岩和尚の大悟
 
 今回は大佐和尚のお弟子の白岩良伝和尚(当山一三世)についてですが、伝記には大悟に関しては次のように述べられているのみです。

 平居、趺坐(坐禅)を愛でるのみ。稍、長じて東西の 諸刹(諸寺院)に遊ぶ。佐  公(大佐和尚)に見えて、心印(印可証明)を受く。

ここでは坐禅を好んだ白岩和尚が大佐和尚から悟りを認められたことが説かれるのみで、その内容は一切説かれていません。そこで次ぎに、住職就任後の最初の説法を見ますと次のようです。

 天、東南高く、地、西北低し。
 人々、鼻孔は遼天にして、箇々、壁立は万仭たり。
 君臣道合し、四海清平なり。
 法々然り、塵々然り。
 其れ或は未だ然らざれば、珍重。

 (天は東南方面(山手)が高く、地は西北方面(日本海側) が低い。
  人々、鼻が天まで届くほど高慢な心でいるが、
  その人々には箇々の面目があり、それ(箇々の面目)は断崖絶壁となって、
  高慢となった人々を近づけようとしない。
  しかし ながら、君も臣もなく融け合っており、
  四方の海は波一つな く穏やかであって、
  あらゆる事事物物が本来の有り様を示しているではないか、
  おわかりかな、ごきげんよう)

括弧内に現代語訳を試みました。稚拙な訳文ですが、大まかなところは何とかご理解いただけるかと思います。

前半は、人々が鼻が天まで届くほど高慢な心でいるが、人々は同時に本来のあるべき姿を宿している。しかし高慢な心が邪魔して、そこにたどり着けていないと説かれており、
後半は、君主も臣下もなく、四海も波一つなく、人界も自然界も平穏無事で、あらゆる事が本来の姿を現していると説かれています。

前半は迷いの世界が、後半は悟りの世界がそれぞれ説かれているように思われます。そして最後に「其れ或は未だ然らざれば、珍重」(おわかりかな、ごきげんよう)と付け加えられています。

この白岩和尚の説法が解るためには日頃の坐禅の体験が必要なのではないかと思います。日頃坐禅をしていれば、高慢な心が消えふせ、自己の本来の姿(本来の面目)が自ずと現れ、悟りの世界となると説かれているように思われます。

次の本了和尚の賛はそのことを言っているのではないでしょうか。
 黙々たる習禅 仏祖の後に守株す
 兀々たる癡坐 歩を威音の前(天地未分以前。本来の面目)に移す
  (黙々たる習禅は仏祖の伝統の死守であり)
  (不動なる非思量の坐禅は本来の面目を現前す)
                                       (令和二年三月)