なるほど法話 海 潮 音
禅 第73話 大佐和尚の大悟
今回は正達和尚のお弟子である一天大佐和尚(当山一二世)の大悟について考えます。『歴住伝譜』には次のようにあります。 十八歳にして達公(正達和尚)を波積(島根県江津市波 積町)の草庵に拝す。 達、問う、「礼拝して何の求む 所ぞ」。 師(大佐)曰く、「作仏(仏と成ること)を求む」。 達、乃ち面壁黙坐(壁に向かって黙々とする坐禅)す。 師、茫然として去る。 次の日、庵門を扣く。達、堅 く鎖ざして入れず。是の如くすること三たびなり。 一日、柴扉を推し破て入る。即ち問う、「如何なる か是れ仏」。 達、面壁黙坐す。 師、此に於いて領悟す。 達公を推し倒して大笑して曰く、「誰が頭上に か一天無からん」。 印するに一天の号を以てす。 これによりますと、大佐和尚は正達和尚に初めて遇われたとき、自分は仏になりたい、と述べておられます。これは禅的には、仏に対する執着ということになりましょう。これを見てとられた正達和尚は、十八歳という若い大佐和尚(勿論この時は和尚などではありませんが)に口で説明するのではなく、面壁黙坐することによって体で示されたわけです。 しかし、若い大佐和尚には通じませんでした。何が何だか解らず、茫然として立ち去るだけでした。次の日、再度訪れると、扉が閉められており、入ることができませんでした。このようなことが三たびつづき、そして四度目は柴で作った粗末な扉を押し破って入り、「如何なるか是れ仏」と問うと、正達和尚はやはり面壁黙坐するだけでした。 若い大佐和尚もここで気付く所がありました。何を気付いたというのでしょうか。 師匠となる正達和尚を押し倒して大声で笑いながら次のように言ったというのです。「誰が頭上にか一天無からん」(誰の頭上にも同じ天空がある→天空のもとに誰も平等である→我もまた面壁黙坐して仏である)と。 後に住職となる儀式の中で、修行僧たちに向かって「炎暑入らざる地、妙に獅子座を容る。仏魔の到らざる処、山僧却て坐断す」(涼しく心地よい場所に仏の座を設け、私は徹底的に坐り抜いて仏に成ろうとする執着心が起こらない境地そのものを断ち切った)と述べておられます。 この境地は仏だとか仏に成ろうとする執着心だとかそのようなもの一切合切が抜け落ちた境地、たとえば、「身心脱落し来る」という道元禅師に対して如浄禅師が「身心脱落。脱落身心」といわれた「脱落身心」、すなわち、徹底的に坐り抜く体験によって何もかもが抜け落ちた坐禅人の身体感覚なのではないかと思うのですが。 (令和二年二月) |