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禅 第71話  天桂和尚の大悟
       
 今回は一清和尚のお弟子の天桂存茂和尚(当山一〇世)についてですが、伝記には大悟に関わる具体的な記述はなく、次のように述べられているのみであります。
 十九にして清公(一清)に見え、機語契通す(自分な りの思いを述べたところ、  一清禅師の意にかなった)。
 曾て 他に遊ばず、巾瓶に侍する(禅師の左右に親しく随侍 する)のみ。
 清(一清)、天桂を以てこれを喚ぶ。
 
 また、「世紛(世の中のもつれ)を願わず、方丈の門を閉ざして仏像を彫刻するのみ」ともありますが、大悟の様子を知ることはできません。そこで、甚だ難解ですが本了和尚の賛の現代語訳を試み参照してみます。

 稟気廓如にして、道情疎ならず。(元来さっぱりした性格で仏道への思いはいつも おろそかでない) 
 空印に普く応じて、環中常に虚なり。(環い穴にはまった軸が自在に動くように現 象世界の変化に自在に応じる) 
 深く方丈の門を鎖ざすや、石を鎸りて仏を做る。(方丈の門を固く閉ざして石仏を  造るかと思えば)  
 恢いに遊戲場を開くや、対機に対して巻舒す。(大い に道場を開き、修行僧への 導き方は、苦しめたりのびのびさ せたり自在である)

右の賛の最重要部は二行目の「空印~虚なり」でありましょう。この言葉は、石井修道さんが問題にされている「活眼の環中、廓虚を照らす」(『従容録』第六三則の頌)、あるいは「道環の虚、盈つること靡し」(『宏智頌古』第七七則「仰山随分」の話)に通じるように思われます。

ここに見られる「環中」や「道環」を石井さんは『荘子』斉物論篇の「彼と是とその偶を得ること莫き、之を道の枢と謂う。枢にして始めてその環の中に得りて以て窮まり無きものへと応く」に基づくとされています。

「枢」とは扉の軸であります。それが「環中」にぴったりはまって自在に動くというたとえが使われているのであります。

このような背景のもとに本了和尚の「空印に普く応じて、環中常に虚なり」を「環い穴にはまった軸が自在に動くように現象世界の変化に自在に応じる」と現代語訳してみました。

これは丁度、「恢いに遊戲場を開くや、対機に対して巻舒す」(大いに道場を開き、修行僧への導き方は、苦しめたりのびのびさせたり自在である)に対応しているでしょう。

この天桂存茂和尚の修行僧に対する臨機応変な指導の仕方は「環中常に虚なり」、すなわち、自らの心が虚なる状態、言葉を換えますならば、自らの心を空しくしているが故にできる指導ではないかと思います。

恐らく天桂和尚は仏像を造られると同時に徹底した坐禅をなさった方なのでありましょう。 (令和元年十二月)