なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第70話  一清和尚の大悟
   
 今回は宗養和尚のお弟子の一清瑞天和尚(当山九世)についてですが、伝記には大悟ではなく開堂(新住職としての最初の説法)の様子が次のように述べられます。
  衆に示して曰く、「『古仏、曾て滅度せず。常に其の 中に在って経行し、若しく             は坐臥す。』若し恁麼に会 せば、得坐披衣して向後に無事な            り」。
右の現代語訳を試みます。
  修行僧に次のように教えられました。「『過去世の諸仏は悟りの世界に渡ってし            まうことなく、常に迷いの世界に留まって衆生と日常生活を共に            された。』 もしこのように体得できれば一人前の説法者として             今後問題ないであろう」と。
 まず、『古仏~坐臥す』は経典(『法華経』分別功徳品の最末語)の一節です。住職として最初の説法に当たり、経典の一節を使って自らに言い聞かせる如く修行僧に教えられたものと思われます。

内容的には悟った者が悟りの世界に渡ってしまわず、迷いの世界に留まり、迷える衆生と生活を共にする所に衆生教化が成り立つとの教示かと思います。

これらの内容は何に基づいているのでありましょうか。恐らく道元禅師が中国留学中に如浄禅師からの教えを書き留められた『宝慶記』ではないかと思います。

同書に次のようにあります。「仏祖の坐禅は(中略)坐禅の中において、衆生を忘れず、衆生を捨てず、(中略)常に慈念を給して、誓って済度せんことを願い、あらゆる功徳を一切に廻らし向けるなり。この故に仏祖は、常に欲界に在って坐禅弁道す。(中略)世々に諸の功徳を修して、心の柔軟なることを得ればなり」。

要約しますと、仏祖は常に慈悲心を以て、誓って一切衆生を救済しようと願い、あらゆる功徳を一切衆生に廻らそうとする。それ故、仏祖は常に迷いの世界の中で坐禅弁道する。それは仏祖が心の柔軟を得ているからである、となりましょう。

これにより、仏が迷いの世界に留まっている理由が解るのですが、それが可能なのは心の柔軟を得ているからとあります。

『宝慶記』ではつづいて道元禅師が柔軟心とは、と質問され、如浄禅師が「仏々祖々の身心脱落を弁肯するが、乃ち柔軟心なり」と答えられます。

身心脱落とは如浄禅師によれば坐禅であります。そうしますと、坐禅によって身心脱落(自己の身・心にとらわれたガチガチの心の脱落)がもたらされ、柔軟心を獲得することができ、そのことにより衆生に対する慈悲心がわき起こり、遂には衆生救済に乗り出す、といった流れとなります。坐禅が仏行といわれる所以でありましょう。(令和元年十一月)