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禅 第69話  宗養和尚の大悟

 今回は園馨和尚のお弟子である鷺月宗養和尚(当山八世)の大悟について考えます。『歴住伝譜』には次のようにあります。 

  三更(午前一時ごろ)に及んで、将に寺に帰らんとす。
  月苦え星稀にして白鷺下る。
  師、豁然として省す。
  亟やかに所得を呈して曰く、
  「天上天下、明 月に鷺を蔵す、去年今日、大いに敗闕を納る」。
  馨 (園馨)、許可するに鷺月を以て号と為す。 

鍵となる言葉は「明月に鷺を蔵す」でありましょう。これは洞山良价禅師の『宝鏡三昧』に出てくる言葉で、真っ白な月光の中に白鷺が下りてきて月光に隠れて見えなくなったという意味です。

『禅学大辞典』では「平等の中に差別があることのたとえ」と説明しています。即ち、平等(月の白光と白鷺)の中の差別(月と鷺)であります。

しかし、宗養和尚が悟った内容は果たしてそのような哲理でありましょうか。

本了和尚の賛に「二三を呑却して、七八月を吐く」とあります。

これは、『景徳伝灯録』巻一五、投子大同章にある問答に基づきます。

「満月以前の三日月(迷いの喩え)の時はどうですか」の問に「二・三箇のみ込め」と答え、
「満月以後はどうですか」の問に「七・八個吐き出せ」と答えたという、月の満ち欠けを取り上げた問答です。

本来、月は一つであり、色々な欠け方で見える月が別にあるわけではありません。それは私どもが勝手に差別して有るように思っているだけです。

「七・八個吐き出せ」とはそんな勝手な差別心を吐き出せということでありましょう。

本了和尚の賛には「雲霧斂めて秋水淡如たり」(雲霧が収まってみると秋の池の水は澄みきっている)とあります。

宗養和尚については悟りの機縁に先立ち「常に禅晏(坐禅)のみ是れを楽しむ」の如く熱心な坐禅人であったことが強調されており、「雲霧斂めて秋水淡如たり」とは坐禅に徹してみると差別心(雲霧)はすっかり消えふせ澄みきった秋水のような心だ、という意味でしょう。

してみると、本了和尚は平等即差別といった哲理ではなく、坐禅に徹することによる差別心の収束を賛として述べておられるようです。

「明月に鷺を蔵す」、即ち、月の白光に白鷺が見えなくなる光景は、坐禅に徹したときの差別心の収束の光景に他ならないと悟ったというのではないでしょうか。

本了和尚の賛の前半「明鷺是れ月、天上月に非ず」(明月に照らされた鷺は月である。天上の月は月ではない)は、月だ鷺だという差別心を否定している句のように思われてなりません。 (令和元年十月)