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禅 第67話  竹庵和尚の大悟
     
 今回は永芳和尚のお弟子である竹庵宗忠和尚(当山六世)の大悟について考えます。『總源山歴住伝譜』(『歴住伝譜』と略称)に次のようにあります。
 
 一日、衆の為に点茶(お茶接待)す。
 茶瓶(茶を入れるかめ)を蹈飜(蹴飛ばす)して、忽然として省 (悟り)有り。
 即ち曰く、「一蹈に蹈飜す、迷盧 (須弥山)百億。一口に呑み尽す、三世諸仏」。 芳(永芳和尚)、これを然とす。

釈然としない感じですので現代語訳してみます。

 ある日、竹庵和尚は修行僧たちのために、茶の接待をする折、
 茶入れを蹴飛ばしました。その時、突然、悟ったのです。
 そこで一句「一蹴りで百億の須弥山を蹴飛ばし、一口で過去現 在未来の諸仏を 全て飲み尽くした」。
 これにより、永芳和尚 は竹庵宗忠和尚が悟ったことを認めたのです。 

やはり釈然としません。なぜでしょうか。

茶入れを蹴飛ばした時、悟ったというのですが、その悟りを表す一句では「一蹴りで百億の須弥山を蹴飛ばし」とあります。

蹴飛ばした対象が「茶入れ」から「百億の須弥山(巨大な山)」に替わっています。

その辺が釈然としないわけです。

どうも「蹴飛ばす」の元の言葉である「蹈飜」が問題です。

『禅学大辞典』には、「けとばすこと。相対的差別を打ち払うこと。」とありました。

「茶瓶を蹈飜し」のときは、普通に「けとばす」の意味で使われ、「一蹈に蹈飜す、迷盧百億」のときは、「相対的差別を打ち払う」の意味なのではないでしょうか。

その意味を明確にするために、「けとばす」の反対を連想する「呑み尽くす」を使って「三世諸仏」とあるのではないかと思われます。

「相対的差別を打ち払う」とは「相対的差別をけとばす」と考えれば、「物をけとばす」という意味の「蹈飜」という言葉に、特別に「相対的差別」という観念をけとばす意味で使われたと考えれば、納得がいくように思われます。

要するに、竹庵和尚が茶入れを蹴飛ばしたとき、禅僧として蹴飛ばすべきものは「相対的差別観念」であると気付いた。それが悟りであるということかと思います。

そのように気付くことができたのは、賛に「住山は兀々と坐して機を忘ず」(住職中は不動に坐した無心の日々)とありますように、竹庵和尚が坐禅に徹しておられた方だからでありましょう。

ただ『歴住伝譜』に「識量寛和」(識見と度量が寛く和らいだ)と説かれるようなスケールの大きい方であるが故に、「迷盧百億」(百億の須弥山)とか「三世諸仏」といった言葉を使われたものと思います。 (令和元年八月)