なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第66話  永芳和尚の大悟
    
 今回取り上げます春屋永芳和尚(当山五世)も唄庵禅師のお弟子さんです。その大悟の様子が『總源山歴住伝譜』に次のようにあります。

  (永芳)「恁麼に熱す、何の処にか廻避せん」(こんな熱暑は、どこに逃げたらい いですか)
 唄庵禅師「那箇か是れ熱底」(どれが熱暑か) 
  (永芳)佇思す。(考え込んでしまった)
 唄庵禅師「熱時は熱し、寒時は寒す」(暑いときは自分をうだらせ、寒い ときは自 分を冷えきらせ)
  (永芳)猶、左右に親炙する(親しく感化を受ける)こと三歳にして、日に智見を  増す。既に心印(印可証明)を承く。

この後、永芳和尚は三年にわたり唄庵禅師のもとで修行を重ね、「熱時は熱し、寒時は寒す」をものにされて印可証明を承けられました。

この言葉は洞山良价禅師(中国曹洞宗開祖)の「寒時は闍梨(そなた)を寒殺し(冷えきらし)、熱時は闍梨を熱殺す(うだらせ)」に基づきましょう。

本了和尚の賛に次のようにあります。

 熱時は熱し、寒時は寒す。
 早朝は粥、午時は飯。 
 点々たる心や、井の驢を覷るが如し。   
 昭々たる眼や、木槵に換却す。

右賛の一行目後半は「朝はお粥を食べ、昼はご飯を食べる」の意味です。禅寺での日常生活を淡々と行うことを言っているでしょうから、「熱時は熱し、寒時は寒す」とは、「暑いときは暑いのがあたりまえ、寒いときは寒いのがあたりまえ」ということになりましょうか。

二行目の「点々たる心」とは「その時その場の心」でしょう。「井の驢を覷るが如し」は『従容録』第五二則「曹山法身」に出てくる言葉で、仏の真法身は虚空のようであるが、物に応じて形を現す。その様子を徳上座が「驢の(驢馬が)井(井戸)を覷(見)るが如し」と言ったのに対し、まだ不十分だとして、曹山禅師が言った言葉が先の「井の驢を覷るが如し」であります。

驢馬といえども目がありますので井戸を見れば、主観(見るもの)と客観(見られるもの)とが成立します。

しかし、見るものと見られるものとを逆にした「井の驢を覷るが如し」では、見るものが井戸であります。井戸には目がありません。目のない井戸が見るとは、無心で見るあり方を言っていると考えられましょう。

「昭々たる眼や、木槵に換却す」も同様であります。

暑かろうが寒かろうが、「無心で」(ごちゃごちゃ思わず)行動するとき、暑いとか寒いとかの思いは無いわけです。  (令和元年七月)