なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第64話  岳翁和尚の大悟
         
 今回は唄庵禅師のお弟子である岳翁宝寿和尚(当山三世)の大悟(悟り)について考えます。

当山に伝わります『總源山歴住伝譜』に次のようにあります。

 庵(唄庵)、鍬子を拈じて曰く「是れ什麼ぞ」。
 師(岳翁)、擬議す。
 庵(唄庵)、咄して(叱って)曰く「生より死に至るまで只だ是れ這れのみ」。
 師(岳翁)、言下に領悟して地上に拝す。

これでは全く解りませんが、鍵となる言葉は「生より死に至るまで只だ是れ這れのみ」でありましょう。

これは『祖堂集』巻十五、五洩霊黙章に石頭希遷禅師の言葉として「生より死に至るまで只だ這箇の漢なるのみ」と出てきます。

この前後がどのようになっているかを小川隆氏の現代語訳で見てみますと、「五洩が門を出ようとしたその刹那、石頭が大声でどなりつけた。その時、五洩は、一方の足は門の外、もう一方は門の内にあった。思わず振り返ると、石頭は手刀で切るように、側面を向けて掌を立てた。〈生まれてから死ぬまで、ただ、これ、このとおりの男あるのみ。そのほかにキョロキョロと何を求めるのか!〉五洩はからりと大悟した。」となっています(小川隆『語録の思想史』一三二頁)。

門を出ようとした刹那(瞬間)に、出しぬけに大声でどなられ、思わず振り返る。この「思量を介さない自然な身心の反応」(現実態としての自己)に対して、禅では「仏のはたらき」(本来性としての自己)を見ようとします。

そのことを「只だ是れ這れのみ」とか「只だ這箇の漢なるのみ」という言葉で表現して、日常的ではあるが、思わず(思量を介さないで)なされる動作こそ仏のはたらき(本来性)なんだと言っているのです。

しかしここでは「門を出ようとしたその刹那、(中略)一方の足は門の外、もう一方は門の内にあった」という一瞬が問題とされています。

この一瞬はいったい何を意味するでしょうか。私は「思わず振り返る」ことによってもたらされる「思量を介さない自然な身心の反応」はたまたまのことですが、これを意識的に作り出す方法が「門を出ようとしたその刹那」に示唆されているように思います。

「今」という一瞬に集中する(感じつづける)坐禅がその方法です。

今を感じつづけるとき、思量は働きません。思量が働いたとき、今をはずしたことになります。

このような坐禅を試みますと簡単でないことが判ります。簡単ではありませんが、日々試みますと、何となく「仏のはたらき」を感じるような気もします。あなたも試してみてはいかがでしょう。  (令和元年五月)