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禅 第63話  唄庵禅師の大悟
     
 今回は不見禅師のお弟子である唄庵義梵禅師(当山二世)の大悟(悟り)について考えます。

当山に伝わります『總源山開祖二世行譜』によりますと、不見禅師が修行僧たちに「身心脱落(坐禅は身心脱落なり)の話」を取り上げ話しておられるのを聞いておられた時、突然に大悟され、不見禅師が自室に帰られてから、急ぎお訪ねされました。その態度が普通でなかったため、次のような問答が交わされました。

 不見禅師「什麼の道理を覩る」。

 唄庵禅師「義梵(私は)、今日、和尚の舌頭(ことば)を疑わず」。

 不見禅師「速かに道え、々々」。

 唄庵禅師、(不見禅師に)一掌(平手の一打)を与う。

 不見禅師、微笑して頷けり。

とありまして、不見禅師は唄庵禅師の大悟を認められたというのです。

お解りでしょうか。一見すると、平手の一打で認められた如くですが、そうではなく、「義梵(私は)、今日、和尚の舌頭(ことば)を疑わず」の一句で認められたのです。

実は、似た言葉を、義介禅師(永平寺三世)の悟られたことを懐奘禅師(永平寺二世)が認可されるときに、「古人云く、『今日已後、天下人の舌頭を疑着せじ』と。你(義介禅師)もまたかくのごとし」(御遺言記録)というように使っておられます。

どのような経緯で使っておられるかといいますと、義介禅師が「先師(道元禅師)の会において聞きしところの法」について「内心にひそかにおもえり、この外に真実の仏法定ずこれあるべしと。然るに近ごろこの見を改めたり」と告白しておられるところで使っておられるのです。

道元禅師は『学道用心集』の中で、師匠の説を聞いて己見(自分の勝手な見解)と比較し、一致すれば是とし、一致しなければ非とする。そのような人は迷者であるとされ、書物から学ぶ限り、自分の都合のいいように解釈するだけであって、己見を形作るだけであるから、一向に迷いを脱することはできない。自分の都合を排除してくれる存在は他者(正しい師匠)しかいないと説かれます。

この道元禅師の教えに照らしてみれば、「今日、和尚の舌頭(ことば)を疑わず」とか「今日已後、天下人の舌頭を疑着せじ」というのは「己見(自分の勝手な見解)がなくなりました」というのと同じではないでしょうか。

これは単に自己主張をしないというのではなく、仏道修行として考えねばなりません。

いずれにせよ、その己見をなくすためにはどうするか。日々の坐禅修行の積み重ねということになりましょう。 (平成三十一年四月)