なるほど法話 海 潮 音
禅 第62話 不見禅師の大悟(悟り)
当山海潮寺の御開山不見明見禅師は修行時代、多くの禅僧のもとで修行されましたが、最後に通幻寂霊禅師という極めて厳しい禅僧のもとで大悟されました。 その大悟のご様子を当山に伝わります『總源山開祖二世行譜』によって見て参りましょう。 不見禅師「修行者が通らねばならぬ究極の関門を通過する最後の一句(末后一句)とは?」 通幻禅師「我もまた知らぬ」(我亦不知) 不見禅師「それが究極の関門を通過した方の説明ですか!」 通幻禅師「何を言うか」(キッチリ説いてやったではないか。警策という棒でピシャリと背中を打った) 不見禅師「・・・」(茫然とするばかり) 問題は通幻禅師の「我もまた知らぬ」とは如何なる意味かということです。 そもそも究極の関門とは何でしょうか。 仏教教理を原理的に言えば、「煩悩があるから迷う。煩悩を無くせば悟る」となります。 しかし、煩悩は命に直結したもので、無くすことはできません。人間は動物の中で考えることが突出した動物です。人間の迷いは煩悩の存在が根底にありますが、その途中にある「考えること」が立ちはだかり、むしろ迷いの大半は「考えること」によって大きく左右されています。 そこで、禅では、この「考えることの排除」を究極の目的としているのです。 「究極の関門を通過する」とはこのことを言うものと思います。 また。私どもがものを考えるとき、必ず言葉で考えます。ですから「考えることの排除」とは「言葉の排除」でもあるはずです。 そうであれば、「究極の関門を通過する」とは「考えることと言葉とをともに排除できた」というのと同じことかと思います。 そこにはもはや言葉は通用しませんから、それを表す「最後の一句」があるとすれば、それは普通の言葉としては成り立たないでありましょう。 通幻禅師の「我もまた知らぬ」とは「最後の一句」を「私は知らない」というのではなく、「言葉を排除した世界のことを通常の言葉で言うことはできぬ」という意味を「我もまた知らぬ」という非言語で表現されたものと思われます。 このことを後日、不見禅師は大悟され、通幻禅師の法を嗣がれました。 不見禅師は生涯、通幻禅師との問答で交わされた「末后の一句」「吾も亦知らぬ」という二つの言葉をとても大切にされたようです。 そのことは禅師の遺偈(ゆいげ。辞世の句)であります「魔に入り仏に入り、六十四暮、末后の一句、吾も亦知らず」の中ににそのまま使われているのを見るからです。(平成三十一年三月) |