なるほど法話 海 潮 音
禅 第61話 過水の偈
道元禅師が中国に渡り如浄禅師より受け継がれた宗派が曹洞宗ですが、その祖とされる洞山良价禅師(八〇七~六九)というお方に「過水の偈」(かすいのげ)というのがあります。 「渠(かれ)は今、正に是れ我。我は今、渠に不是(あら)ず。」というものです。 『祖堂集』(九五二年の成立)という禅の書物に出てきます。難しそうですね。 駒沢大学の小川隆教授は「渠は今まさしく我である。しかし我は今、渠ではない」と現代語訳されています。読み下し文とほとんど変わらないですね。 問題は「渠」とは何か。「我」とは何かです。それを小川教授は「渠とは本来性」「我とは現実態」と説明されます。 「我」も「渠」も私たち自身のことですが、「我」とは煩悩に振り回されている普通(現実態)の私のことです。「渠」は私たちの本来の姿です。 この「渠」と「我」を、橋を渡っている時に川の水面に映った自分の姿を見て気付かれ、洞山良价禅師が歌われたのです。 橋を渡っているその時とは、『祖堂集』には「這の岸を離れて未だ彼の岸に到らざる時」という解説文がついています。 これを小川教授は「現実態の此岸の世界(凡夫の世界)と本来性の彼岸の世界(仏の世界)、そのいずれにも属さぬ不一不異の自己の姿」(括弧内は筆者)と説明されています。 小川教授の説明はここまでです。どうしたらそうなれるのかという説明はありません。 橋を渡るときに川の水面に映る自己の姿という情景は比喩であります。是を一旦捨てないといけません。 その上で、「過水の偈」の現代語訳を眺めて見ましょう。 渠(仏)は今、正しく我である。 我は今、渠(仏)ではない。 前半と後半は何が違うのでしょうか。じ~っと見比べて見てください。きっと解りますよ。 そうです。前半は坐禅をしているときです。後半は普通のときです。 でも坐禅をしているときでも、「我は今、正しく渠(仏)である」とはいえないのです。 「我」が主語になっているからです。「我」という思いがそこにあるからです。そのような思いがなくなる坐禅をしないといけません。 どうしたらよいでしょう。「渠は今」とあります。その「今」に集中するのです。 「今」とは一瞬です。そしてどんどん新しくなっています。そんな「今に集中する」のは簡単ではありません。 しかし「今に集中する」坐禅をするとき、ものを考えている暇がありません。そんな坐禅をするとき、「渠(仏)は今、正しく我である」という世界がやってくることでしょう。 当山ではそんな坐禅をやっています。あなたもいかがですか。 (平成三十年八月) |