なるほど法話 海 潮 音
禅 第59話 只管打坐とは
前回、道元禅師の「ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」(『正法眼蔵』生死の巻)というおことばを引きまして、 その中の「仏のいへになげいれて」というところが道元禅師の説かれる坐禅であり、それは「一切の人間的行為の不為」を内容とする「仏行」(仏としての行為)であること、そして「一切の人間的行為」を否定する内容であるが故に、昭和の禅者・澤木興道老師は「(あなたたち人間的期待感がぷんぷんしている人たちにとっては)ナンニモナラヌ」と仰ったということを申し上げました。 この澤木老師の立場は道元禅師が「待悟禅」(悟りを期待しての坐禅)を否定する立場に立っておられることを受けてのことです。 ところで、道元禅師の坐禅の特徴を「只管打坐」という言葉で表現される場合が多いのですが、この言葉の意味は「ひたすらに坐禅をすること」とされています。 そこで右の道元禅師のおことばの「仏のいへになげいれて」の箇所に「只管打坐」を入れてみますと「ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、只管打坐(ひたすらに坐禅)すれば、(中略)仏となる」となりましょう。 私どもは(私だけかも知れませんが)これを「中身はともかく、ひたすらに坐禅をしていれば、やがて仏となる」と誤解しているのではないでしょうか。これは「待仏禅」であり、「待悟禅」とほとんど変わるところはないでしょう。 ではどこが誤解の原因なのでしょうか。まず、「只管打坐」を「ひたすらなる坐禅」という意味だとするとき、道元禅師の言われる「只管」(ひたすらなる)とは、臨済宗などが「公案」(手本となる祖師の言句)を用いて坐禅をするのに対し、そのようなものを用いず「純粋に」坐禅するという意味かと思います。 そしてその「純粋さ」は一切の人間的行為を排除する程の極限の純粋さ(三業に仏印を標する純粋さ)が要求されているものと思われます。 この「只管打坐」をややもすると外見的な「ひたすらなる坐禅」と理解してしまい、そのような坐禅で「仏となる」ことができようか、という疑問を抱きがちです。 しかし、道元禅師の場合は、行為とその結果は一つのものとされています。ですから一切の人間的行為を排除して坐る「只管打坐」には人間的行為は無いのですから、全くの「仏の行為」であり、「坐っているその一瞬一瞬が仏である」の意味の「仏となる」でありましょう。(平成二十九年十一月) |