なるほど法話 海 潮 音
禅 第58話 道元禅師の坐禅
道元禅師の坐禅を実践され昭和の禅者と言われた澤木興道老師は「坐禅をしてどうなるのですか?」とよく質問されたそうですが、そのたびに「ナンニモナラヌ」と答えられたそうです。 世間の常識では、「坐禅をして悟りを開く」と考えられているようですから、質問者も坐禅で有名な澤木老師ならさぞスバラシイ悟りを開いておられるのに違いないと思い、どんな風だろうか、是非聞いてみたいものだ、との思いで質問されるのでしょう。 ところが「ナンニモナラヌ」という答えです。澤木老師はなぜ「ナンニモナラヌ」と答えられるのでしょうか。はぐらかす思いで言われたのではないはずです。きっと理由がありましょう。 道元禅師は「待悟禅」を否定されます。悟りを待ち望んでする坐禅です。そこには「坐禅をして悟りを開く」という常識が横たわっているでしょう。澤木老師はこの常識を否定されているわけです。 人間は何かをするときには必ず目的を持って行動します。無目的に行動すると言うことはまずないでしょう。従って坐禅をするときも悟りを目的にして行おうとします。これが待悟禅といわれるものに他なりません。 このような坐禅を道元禅師は否定されますし、澤木老師も同じく否定されているわけです。 なぜ否定されるかと言いますと、前々回に申し上げましたように、坐禅は「仏行」だからです。「仏行」とは「仏の行為」であり、「一切の人間的行為の不為」を内容とします。 せっかく仏行たる坐禅をするときに「悟りを待ち望んでする」というような人間的行為でするならば、それは自己矛盾というものでしょう。ですから道元禅師は待悟禅を否定されるわけです。 そして道元禅師はご自身の『正法眼蔵』生死の巻の中で「ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」と説かれています。 ここで重要なのは「仏のいへになげいれて」でありましょう。どんな風に投げ入れたらよいのか、これが問題です。 これこそ仏行としての坐禅でありましょう。前々回に申し上げました「三業に仏印を標して」する坐禅であります。 まっ直ぐに背骨を延ばして坐り、舌を上あごにつけて、今を感じつづけて坐るわけです。 身体的・言語的・思考的な一切の人間的行為をしない形で坐る坐禅が「仏のいへになげいれ」る行為でありましょう。そのような行為の「一瞬一瞬が仏である」と説かれているものと思っています。(平成二十九年十月) |