なるほど法話 海 潮 音
禅 第57話 仏行としての坐禅
前回、道元禅師の「坐はすなわち仏行なり。坐ハ即チ不為なり」という言葉を、「坐禅とは仏行(仏の行為)であり、人間的行為を為さない(不為)ことである」という意味に理解しました。 それでは、そのような意味の坐禅とは、一体、どのような坐禅なのかという問題が起こりますが、今回はその点を考えてみたいと思います。 道元禅師は仏行(仏の行為)としての坐禅の仕方を『弁道話』の中で「三業に仏印を標し」てするのであると説かれています。 「三業」とは人間の行為(業)を身業(身体行為)と口業(言語行為)と意業(思考行為)の三種の人間的行為をいいます。 「仏印」とは「仏の印」であります。「仏の印」とは「人間的行為を為さない(不為)印」ということになりましょう。 三業と仏印の意味が分かったところで、「三業に仏印を標し」の意味を改めて考えますと、「身業・口業・意業の三業のそれぞれに仏印(人間的行為を為さない印)をあらわし」ということになりましょう。 「身業に仏印を標し」と「口業に仏印を標し」及び「意業に仏印を標し」たそれぞれの形を道元禅師の『普勧坐禅儀』の中に求めますと、「身業に仏印を標し」た形は「結跏趺坐」(或いは半跏趺坐)であり、「口業に仏印を標し」た形は「舌掛上腭」(舌、上の腭に掛けて=舌を上あごに付けて)でありましょう。 最後の「意業に仏印を標し」た形は何かといいますと、一応、「非思量」と考えられます。 これら身口意にわたる三種の行為は仏行であり、それらは身口意にわたる一切の人間的行為の不為を意味しています。左記に図示します。 (仏行) (人間的行為の不為) ┌身業:結跏趺坐=一切の人間的身体行為の不為 坐禅┼口業:舌掛上腭=一切の人間的言語行為の不為 └意業:非思量 =一切の人間的思考行為の不為 右の身業と口業については具体的ですからお分かりいただけるかと思いますが、意業の「非思量」は分かり兼ねますね。 「非思量」の具体的姿は何か。結論だけ申しますと、「今を感じつづけること」であります。 「今」は一瞬です。間髪入れず、次の「今」となります。その「今」を感じつづけるのです。息を止めたときがそうでしょう。 呼吸は不可欠ですが、今を感じつづけるのには邪魔ですから、「鼻息微に通じ」(普勧坐禅儀)と説かれます。 今を感じつづけるとき、ものを考える余裕はありません。即ち思考行為の不為がもたらされます。「今を感じつづける」行為が仏行たる所以です。 (平成二十九年八月) |