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禅 第56話  曹洞宗の坐禅とは
    



 ダルマさんとして親しまれている菩提達磨はインドから中国に渡り、中国禅宗の初祖とされる人物です。

この達磨さんから六代目に六祖慧能が出られ、更にこの方から南岳懐譲と青原行思という二神足が世に出られ、前者から臨済宗の流れが起こり、後者から曹洞宗の流れが出来ました。

南岳の高弟に馬祖道一(七〇九~八八)という方がおられ、青原の高弟に石頭希遷という方が出られ、そのお弟子さんに薬山惟儼(七四五~八二八)というすぐれたお弟子さんがおられました。ややこしいので図示します。

      ┌南岳懐譲─馬祖道一………………(臨済宗)
六祖慧能┤
       └青原行思─石頭希遷─薬山惟儼…(曹洞宗) 

 今回のお話しは上に挙げました人物に伝わる坐禅についてのお話しを通して臨済宗と曹洞宗との違いの一端を申し上げ、曹洞宗の流れを受け継がれた道元禅師の坐禅について考えてみたいと思います。

 初めに南岳禅師と馬祖との問答です。

 馬祖が坐禅をしているとき、南岳禅師が尋ねました。
 (南岳)「ここで何をしておる?」
 (馬祖)「坐禅をしております」
 (南岳)「坐禅をしてどうする」
 (馬祖)「仏に成りたいと思います」(作仏を図る)

 次に石頭禅師と薬山の問答です。

 薬山がある場所で坐禅をしておりました。
 石頭が問うた「君はここで何をしているのか?」
 (薬山)「何もしておりません」(一切不為)

 上記の両問答は続きがありますが、冒頭部分のみを示しました。

坐禅というものに対して臨済宗では「作仏を図る」(仏に成ろうとする)と答え、曹洞宗では「一切不為」(何もしない)という答えです。

「作仏を図る」とは凡夫が仏に成ろうとすることで、立場が凡夫(人間)です。凡夫が坐禅をしたからといって仏に成れるでしょうか。はなはだ疑わしく思います。

道元禅師は薬山禅師の「一切不為」を受けて、「坐はすなわち仏行なり。坐ハ即チ不為なり。」(『正法眼蔵随聞記』巻三)と示されます。

坐禅とは「仏行」であると同時に「不為」だというのです。

何が「不為」かと言えば、仏行でないこと、即ち、一切の人間的行為(凡夫的行為)が、でありましょう。

坐禅というものは道元禅師の示されるように、当初から仏行として、即ち、一切の人間的行為を為さないものとしてする以外にないように思われます。

ただ、それは一体、どんな坐禅かが問題です。 (平成二十九年七月)