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禅 第55話  道元禅師の坐禅(仏祖の坐禅)
    


 
 前回は、坐禅の極致で感応道交を感得したなら、その感得力によって、日常生活の中で菩提心をおこすことができる、というお話しを致しましたが、菩提心をおこすとはどのようなことをいうのでしょうか。

『正法眼蔵』発菩提心の巻に「発心(発菩提心)とは、はじめて自未得度先度他(おのれいまだわたらざるさきに一切衆生をわたさん)の心をおこすなり」「衆生を利益す、といふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり。自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われ、ほとけにならん、とおもふべからず。たとひ、ほとけになるべき功徳熟して円満すべし、といふとも、なほめぐらして、衆生の成仏得道に回向するなり」とあります。

すなわち、菩提心をおこすとは、自分より先に他人を悟りの岸に渡そうという心をおこさせることでありましょう。

そして実は、そのような営みによって自分が功徳を積み仏と成ることができるようですが、そのようには思わず、更にその功徳を衆生のために回向すべきであると説かれています。

これは坐禅中に体験される感応道交の内容(坐禅人の坐禅力により一切衆生が悟り、一切衆生の悟りの力によって坐禅人はますます身心脱落し、更なる修行をつとめるという内容)に対応しており、坐禅の中での感応道交の体験を日常的な意識生活の中で行うことを勧めているように思われます。

 このように、道元禅師の坐禅は、悟りをめざした坐禅ではなく、更に進んで、この発菩提心をめざした坐禅なのではないでしょうか。そのような坐禅が「仏祖の坐禅」といわれているように思われます。

そのことは『宝慶記』に於ける如浄禅師の説示に「いわゆる仏祖の坐禅は、初発心より、一切諸仏の法を集めんことを願う。故に坐禅の中において、衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし、蜫虫にまでも、常に慈念を給いて、誓って済度せんことを願い、あらゆる功徳を一切に廻らし向けるなり」(原漢文)と説かれていることで明らかでありましょう。

そして道元禅師ご自身は『正法眼蔵』弁道話の巻で「予、かさねて大宗国におもむき、(中略)ついに太白峰の浄禅師(如浄禅師)に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ。それよりのち、大宋紹定(年号)のはじめ、本郷(日本国)にかへりしすなはち、弘法救生(法を弘めて衆生を救うこと)をおもひとせり。なほ重坦をかたにおけるがごとし」と述べられますから、身心脱落・発菩提心・弘法救生の全体を包含するものこそ、「仏祖の坐禅」というべきかと思います。(平成二十八年十二月)