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禅 第54話  道元禅師の坐禅(感応道交)
    


 
 今回は、高崎直道先生の解説(『仏教の思想11古仏のまねび〈道元〉』角川書店、昭和四十四年、一五九~一六二頁)に導かれて「感応道交」を考えます。
 『正法眼蔵』弁道話の巻に感応道交の実際について縷々説かれていますが、坐禅の極致の風光ですから極めて難解です。ここは高崎先生の要約されたものを更に私流に要約して引用しておきます。次のようです。

 A、ある人が一時でも正しい坐禅をすると全宇宙がさとりとなる。
 B、故にすべての衆生は一時にさとりを開き、仏の知恵のはたらきを開演する。
 C、これらの仏の目に見えないはたらきによってこの坐禅人(=A)は確かに身心脱落し、さらに仏としての修行につとめる。
 D、このとき、坐禅人の仏行により全宇宙の物まで連鎖的に次々と仏のはたらきをあらわし出す。
 E、しかしながら、これらのことは当の坐禅人の知覚に入ってくることはない。なぜなら、考えるという人間的しわざのない坐禅中のできごとだからである。

 高崎先生は以上のことを次のように図示されています。

     A==C(一坐禅人)
     ↓ / ↓               (「/」は「B→C」の「→」のつもりです)
     B……D(D1,D2,D3,D4,…)

 A(一人の坐禅人)が悟るとB(他の衆生たち)が悟り、それに影響されてAは益々悟り(C)、その ことはD(物)にまで影響 し、全宇宙が悟りとなる、というのです。勿論、A(坐禅人)の坐禅の中での話です。

これは、坐禅人が考えるという人間的しわざを外す坐禅を久しく続けて身心脱落を深め、自我を滅却し尽くして「物」となって感じた世界なのではないでしょうか。

仏教が説く「縁起」(相依性)の世界を坐禅の中で感得している姿のように思われます。

禅ではこのような悟り(自我が滅却され尽くし、自己が全宇宙と一つに感ぜられる)を問題としますが、そこで終わりではありません。

このような坐禅から起きたって日常生活に戻ったとき、坐禅で培った「悟り」で生きることこそが真に求められることになります。

ところで、『正法眼蔵』発菩提心の巻に「感応道交するところに、発菩提心するなり」「菩提心をおこすこと、かならず慮知心(りょちしん)をもちいる」とあります。

慮知心とは認識し判断し思惟する心ですから日常生活ではたらく心です。ということは坐禅の極致で感応道交を感得したなら、その感得力によって、日常生活の中で菩提心をおこすことができる、となりましょうか。その点を次回に考えます。(平成二十八年十一月)