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禅 第53話  道元禅師の坐禅(本証妙修)
    


 
 これまで何度も申し上げましたように、道元禅師の坐禅は「今、今の一瞬、一瞬に連続集中することによって考えることが起こりえない坐禅」であると理解しています。

これをもう少し内容的に掘り下げ、道元禅師の説かれる「本証妙修」たり得るかどうかを確認したいと思います。

先ず「今という一瞬に集中する」意味を考えます。私たちがものを考えるとき、考える主体と考えられる対象である客体とがあります。そして、考える主体が「今」を感じています。

考えられる客体はその「今」からすると、すべて過去か未来に属します。考えるという神経細胞的作業にわずかでも時間がかかると考えられるからです。したがって考えられる客体側には「今」(現在)は含まれていません。

この「考えられる客体」はヨウカンにたとえた線型時間に相当します。そこで「今、今・・」と連続する「今の一瞬」に集中し続けるということは、「今」を感じている考える主体の側に意識をとどめ、意識を客体側へ向かわせないという行為に他ならないでしょう。

この「意識を客体側へ向かわせない」ということによって、ものを考えるという行為が起こらないことになるわけです。

人間というものは、いくら「ものを考えない」という意志を強く持ったとしてもものを考えてしまうものです。

しかも、その考える行為は舟に乗っていると岸が動いて見えるように、考える主体(心)を不動で常住なものと誤り執着してしまうやっかいな代物なのです。

ですから、今という一瞬に連続集中する坐禅(修)は、やっかいな代物である考えるという行為を起こしませんから、それがそのまま「身心脱落」(身心の乱想を脱落)という「証」(悟り)をもたらしていることになっている訳です。ですから「修証一等」と言われます。

同じことを「本証妙修」とも言いますが、この言葉は「妙修を放下すれば、本証手の中にみてり、本証を出身すれば、妙修通身におこなはる」(妙修〈今今の坐禅〉を行っていることすら忘れてしまえば、そこに本証〈身心脱落・本来の面目〉が手に入っている。ことさら本証に目を向けなければ、全身で妙修が行われているだけである)に基づいています。

ところで、この「今、今の一瞬に集中する坐禅」は、口で言うのは簡単ですが、わずかの油断でも「今」をはずし、考える行為に堕ちてしまいます。ですから「修を離れぬ証を染汚せざらしめん(考える行為で汚さないようにする)が為に、仏祖頻に修行の寛くすべからざると教ふ」という老婆心切なる注意書きまで添えられています。(平成二十八年十月)