なるほど法話 海 潮 音
禅 第52話 道元禅師の坐禅(廻光返照)
天福本『普勧坐禅儀』に「所以に言を尋ね語を逐うの解行を翻し、須く廻光返照の退歩すべし。自然に身心脱落し、本来の面目現前せん。恁麼なることを得んと欲わば、急ぎ坐禅を務むべし」(原漢文、流布本もほぼ同文)とあります。 ここでは坐禅の中身が「廻光返照の退歩」であると述べられています。そして、このことが「言を尋ね語を逐うの解行」と対比されています。 この「言を~の解行」の方は先人達の残した語録などを読んで、坐禅とは何か、悟りとは何かを理解し考える行為を意味しているでしょう。そういうことを「翻し」(裏返し)、「須く廻光返照の退歩すべし」と続きますから、坐禅を意味する「廻光返照の退歩」とは言葉で考えることの対極にあることと考えられます。 そこで「廻光返照」の考察に移りますと、「廻」も「返」も供に「かえす」という意味があります。「廻光」は外に向けていた光の方向を自分の方に廻すことを意味しているでしょうし、「返照」は返した光で自分自身を照らすことを意味しているでしょう。 外に向けていた光を自分自身に向けるということは何を意味しているのでしょうか。これについては、前回、及び前々回にわたって申し上げたことですが、「今」(現在)は自分自身にあること、そして、その「今」は「今」「今」「今」として常に「今」であるわけで、その「今」に連続集中し続けるとき「ものを考える」暇はあり得ないことを申し上げました。「廻光返照」とは、この「今」に連続集中することを意味するでしょう。 そのとき「ものを考えること」はあり得ませんから、ものを考えることを意味する「言を尋ね語を逐うの解行」とは当に対極の関係にあるように思います。 光を外に向けることを「前進」のイメージとすれば、廻光返照は光を自分自身に向けるのですから「退歩」のイメージといえましょう。 ところで『正法眼蔵』現成公案の巻には「人、舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、舟のすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辦肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」とあります。 舟に乗って岸を見るとき、岸が動いているように見えるのは普通の体験です。これと同じように、身心を乱想してものを判断し、自分の心は常住だと誤るのも、人間として普通のことだとされています。 だから、ものを考えることが起こりえないような「廻光返照」の坐禅をすれば、自然に「身心脱落」(身心の乱想を脱落)すると説かれているものと思います。(平成二十八年九月) |