なるほど法話 海 潮 音
禅 第51話 道元禅師の坐禅(坐禅の要術)
道元禅師は天福本『普勧坐禅儀』(天福元年〈一二三三〉御親筆、国宝)の中で坐禅の要術を「念起れば即ち覚せよ、これを覚すれば即ち失す、久々にして縁を忘じ、自ら一片となる、これ坐禅の要術なり」(原漢文)とあります。 ところが、十年後の寛元元年(一二四三)頃、ご自身によって改訂されたと考えられている流布本には「兀兀として坐定して、箇の不思量底を思量せよ、不思量底如何が思量せん、非思量、これすなわち坐禅の要術なり」(原漢文)と改められています。 天福本のこの箇所は中国の『禅苑清規』の「坐禅儀」からの引用ですから伝統的な解釈と言えましょう。 それに対して流布本のこの箇所は、道元禅師が『景徳伝燈録』巻十四にある薬山惟儼禅師とある僧との問答を援用されたものです。 このことは坐禅の中身について伝統的な考えに飽きたらず、禅師ご自身が新たな考えを薬山禅師の問答を使って示しておられることになりましょう。 その新たな考えを知る上で、橋本恵光老師(一九六五年寂)がご自身の『普勧坐禅儀の話』(一八六頁)の中で引用される『涅槃経』からのたとえ話は非常に示唆に富む内容となっています。 要約しますと「油を溢れんばかりに満たしたバケツを一滴もこぼさずに目的地まで運んでいるときの感覚」というものです。 油を一滴もこぼさずに運ぶためには全神経をバケツに集中する必要がありましょう。ものを考えるということはあり得ません。だからといってボーとしている訳でもありません。 これを流布本の一節と重ねますと「全神経を集中(思量)していながら、考えることがあり得ない状態(不思量底)、これが非思量である」となりましょう。 たとえ話では「一滴もこぼさずに運ぶ」のですから、一瞬の油断も許されない訳で、すべての瞬間に意識を集中することになります。これは「今、今、今」の「今」の連続に意識を集中し、意識を「今」(現在)に結び続けてはずさないことを意味します。 前回、線型時間をヨウカンにたとえ、その過去と未来の切り口である現在(今)はヨウカン(線型時間=観念内容)にはなく、それを見ている自分にあることを述べましたが、「今」に集中するとは自分(観念主体)に集中するということで、観念内容(過去と未来=線型時間)の側、即ち考えることに堕ちないことを意味するでしょう。 天福本の「これを覚すれば即ち失す」も「今」の集中に相当するかと思いますが、一時的なもののように思われます。恐らくこのことが天福本の一節から流布本の如くに改訂された理由かと思います。(平成二十八年八月) |