なるほど法話 海 潮 音
禅 第50話 道元禅師の坐禅(時間論)
物理学の世界に「線型時間」というのがあります。直線上の一点を現在とし、一方を過去、他方を未来とし、現在点は過去から未来へ移動します。 これは丁度、時計の針の先端の移動に相当します。ですから私たちの常識的時間とも一致します。 しかしこの線型時間は重大な問題を含みます。現在は持続ゼロの点で示されますから位置が示されるのみです。直線の代わりにお菓子のヨウカンで考えますと、包丁で半分に切った切り口が現在であり、二つになったヨウカンのそれぞれが過去と未来です。 ですから現在はそこにはありません。どこにあるのでしょうか。実はヨウカン(線型時間)を見ている私自身に「現在」すなわち「今」はあるのです。 「今」(現在)という感覚は生きている者が感じる事柄で主観的内容です。更に過去も未来もヨウカンが存在するようにあるのではありません。実は今を感じる私が過去を想起し、未来を想像しているに過ぎません。過去も未来も観念的内容に過ぎないのです。 実はそのような過去と未来が線型時間として表されているのだと考えられましょう。そして現実にあるのは生きている私が感じている「今」(現在)(仮に「今時間」とよんでおきます)だけであります。 道元禅師は「線型時間」に相当するものを「仏法をならはざる凡夫の時節」に於ける時間とし、それを「去来の相」(こらいのそう)と呼んで次のように説明されています。 「河をすぎ、山をすぎし・・・いまは、その山河たとひあるらめども、われすぎきたりて、いまは玉殿朱楼に処せり、・・・とおもふ(=去来の相)。しかあれども、道理この一条のみにあらず。いはゆる、山をのぼり、河をわたりし時に、われありき、われに時あるべし、われすでにあり、時、さるべからず。時、もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時、もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。かの上山・度河の時、・・・ただこれ山のなかに直入して、千峰万峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず、・・・彼方にあるににたれども而今なり」(『正法眼蔵』有時の巻)。 ここでは「上山・度河の時」が過ぎ去った過去の事例とされていますが、それらは過ぎ去ったのではなく、その時々に自分が今(而今)として経験したのであり、過ぎ去ったと思っても高い山から山々を見渡すように、「今」それらを思い出しているに過ぎないとされています。 あるのは自分の感じる「今」だけであり、その今が今今として続いているとの立場です。 先に見た「今時間」に相当するでしょう。(平成二十八年七月) |