なるほど法話 海 潮 音
禅 第49話 道元禅師の坐禅(刹那生滅)
本紙にはふさわしくないとは思いつつも、数回にわたって道元禅師の坐禅の中身を可能な限りのぞいてみたいと思います。 先ず道元禅師は『正法眼蔵』発菩提心の巻の中で「一弾指(指を一つはじく)のあひだに六十五の刹那(瞬間、時間の観念的最小単位)ありて、・・・五蘊(五つの存在構成要素)ともに生滅す。しかあれども、凡夫かつて覚知せず。覚知せざるがゆえに、・・・刹那生滅の道理を信ぜざるなり。もし如来の正法眼蔵涅槃妙心(悟りの心)をあきらむるがごときは、かならずこの刹那生滅の道理を信ずるなり」と説かれています。 即ち道元禅師は刹那生滅を信ずる立場に立たれているということであります。 そして私たち凡夫はその刹那生滅を覚知することができず、覚知できないから信じないという状態にあり、それを凡夫というのだということでもありましょう。 「刹那」とは「覚知できない時間の最小単位」という意味で、たとえば一秒の六十五分の一ということではなかろうと思います。 『正法眼蔵』現成公案の巻には「前後際断せり」という言葉が出てきますが、前刹那と後刹那が断絶しているという意味で、物事は覚知できない刹那ごとに断絶しつつも連続している(刹那ごとに生・滅を繰り返しながら連続している)という極めて観念的な内容が述べられているものと思います。従って「信ずる」ものであるということになるのでしょう。 刹那生滅の道理を信ずるということは、覚知不可能な内容を信ずるわけで、極めて不合理であり、非科学的であると思われるかも知れません。 しかし、このような評価を下すのは刹那生滅を覚知できない凡夫の故とも言えそうです。 たとえば、「種から芽が出る」と言いますが、実際には種から芽が出るわけではありません。 種が畑に蒔かれますと、地中の水分を吸収して種自体がじわじわ変化していき、いかにも種から芽が出たような形になりますが、あくまでも種自体がほんのわずかづつ変化しただけに過ぎません。それを言葉で表すときに「種から芽が出た」と言っているだけです。 そこで、目に見えない「ほんのわずかづつの変化」の方を言葉で表そうとするとき、「刹那」という瞬間に到達し、前刹那と後刹那とはわずかでも異なっていなければなりませんから「前後際断せり」といわれ、これを「刹那生滅」ともいうわけです。要は「無常」ということをこのように説明しているわけです。 道元禅師の仏法は「刹那生滅の道理」を信ずることから始まると言えましょう。 (平成二十八年六月) |