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禅 第48話  マインドフルネス
    


       
 本紙二月号でも取り上げましたが、再度「マインドフルネス」、正式には「マインドフルネス・ストレス低減法」(MBSR)を取り上げます。

と申しますのは、ビジネス雑誌『プレジデント』(2016.4.4号)が特集として取り上げたからです。

MBSRは1979年にマサチューセツ医科大学のジョン・カバットジン博士が坐禅の技法をストレス対処法の医療プログラムとして開発したもので、

同博士の"Full Catastrophe Living"Delta,1990を翻訳(『マインドフルネス・ストレス低減法』北大路書店、二〇〇七)した早大名誉教授・春木豊さんの報告論文(『曹洞宗総合研究センター学術大会紀要』第13回、二〇一二)によりますと、

カバットジン博士の「マインドフルネス」とは「現在に注意を向け、価値判断せずに、瞬間、瞬間の経験を明らかにしてゆくことによって得られる意識」と説明されています。

これは正に道元禅師が説かれた坐禅の時の心理状態に通じる内容と言えましょう。

道元禅師は坐禅の時の心理状態を「非思量」(私は「今を感じつづけること」と理解しています)と説かれますが、これを橋本恵光老師は「油を溢れんばかりに満たしたバケツを一滴もこぼさずに目的地まで運んでいるときの感覚」(老師の『普勧坐禅儀の話』)と説明されています。

溢れんばかりの油の入ったバケツを持って運ぶ様子を想像してみてください。実は橋本老師の引用される話にはバケツを運んでいる人の後ろには一滴でも油をこぼせば斬り殺せと命令されている人が付いて歩いているのです。

橋本老師の理解される道元禅師の坐禅とはそれほどの迫力に満ちた坐禅なのです。

また春木名誉教授の説明には「何かの成果を期待し、執着することはMBSRの本質に反することになる。この点がMBSRを実践する上で、最も難しいところである。道元はここのところを「只管打坐」といった」とあります。

これは道元禅師が「無所得、無所悟の坐禅」を説かれたことに通ずる内容かと思います。

以上のことから考えますと、マインドフルネス瞑想とは臨済宗で説かれる悟りを目的とした坐禅ではなく、曹洞宗の開祖・道元禅師の只管打坐(何も期待せず、坐禅自体が目的の坐禅)に基づくことが明らかです。

人間のする事は必ず何かを期待し何かを目的とします。目的の無い行動は人間性に反するでしょう。しかし、この人間性に反することこそ深い意味があり、それによってストレス軽減も実現するのでしょう。

とすれば、ストレス軽減を目的にMBSRを実践しようとする態度は矛盾となるように思われますが。(平成二十八年五月)