なるほど法話 海 潮 音
禅 第47話 藤田一照老師の講演会
山口県曹洞宗布教研究会では去る七月七日に藤田一照老師(曹洞宗国際センター所長)をお招きし前期研修会を開催いたしました。 「只管打坐について」という演題でお話をしていただいたのですが、得るところ大なるものがありました。今回はその時に得たヒントをもとに道元禅師の坐禅である「只管打坐」を改めて考えてみたいと思います。 只管打坐とは「ただひたすらに坐ること」と説明されますが、藤田老師はこの「只管」(ただ)を「自意識なくして」という意味に理解されているように思います。 坐禅の指導において、体を調え(調身)、呼吸を調え(調息)、そして心を調える(調心)のであるとよくいわれますが、この三つの「調」を「自分がよくよく心して調えるのである」とするのが「自意識による調」ということになるようです。 そこのところを「自意識なくして」といわれるのですが、これを別な言い方でいえば、「自然に任せて」となるようです。すわなち「自然に任せた調」によって坐る坐禅が「只管打坐」ということになろうかと思います。 藤田老師のいわれる「自然に任せて」をもう少し具体的にいいますと、「坐る」というのは体を使って坐るのですから、直接的には「自然」とは「身体の自然」を意味するでしょう。藤田老師は特にこの「身体の自然」とは何かを究めるべく参究なさっておられるように感じました。 また、老師は「自意識による行為」と「自然に任せたあり方」をそれぞれ道元禅師の「強為」と「云為」という言葉に当てはめられ、同じく道元禅師の「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき」という言葉の前半である「ただわが身をも心をも、はなちわすれて」というのが強為を投げ捨てた「自意識なくして」というのに相当し、後半の「仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき」が「云為」であり、「自然に任せて」というのに相当するとお考えのように思われました。 問題は右の禅師の言葉の真ん中にある「仏のいへになげいれて」ですが、これはまさに強為の世界から云為の世界に自らを移し入れることを意味するかと思います。具体的にいえば、「坐禅をすること」を意味するでしょう。 ただ、その坐禅の中身が「強為の坐禅」「自意識の坐禅」「俺がやってやるの坐禅」では道元禅師の坐禅(只管打坐)ではありえないということかと思います。 自然(仏)に任せた坐禅が具体的にはどんな坐禅なのか私自身も参究して参りたいと思っています。(平成二十七年八月) |