なるほど法話 海 潮 音
禅 第46話 道元禅と脳科学
本紙二月号に取り上げましたジル・ボルト・テイラーさんの『奇跡の脳』が教えてくれることを再度問題にします。 テイラーさんが教えてくれることで私が最も惹かれたのは、人間の脳は左脳と右脳に別れており、左脳は「考える脳」だが右脳は「感じる脳」だということです。 そして右脳には現在の一瞬(今ということ)だけが存在し、過去・現在・未来という時間の観念を作り出すのは左脳の働きだということ、 更に、三番目はテイラーさん自身が左脳を損傷し右脳だけが働いている状態を経験して感じたのは、自分の体が流体と化し宇宙と一体だと感じて深い安らぎに包まれたということです。 道元禅師は坐禅中の心のあり方について「箇の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量(ひしりょう)。」(『普勧坐禅儀』)と述べておられます。 私なりの訳を示しますと「考えない状態を考えよ。考えない状態をどのように考えたらよいか。非思量で考えるのである。」となりましょうか。 ほとんど訳になっていませんね。そこでテイラーさんの脳科学を用いて訳しますと、最後の「非思量で考えるのである」は「感じるのである」となりましょう。 道元禅師が坐禅中の心のあり方を説明された右の一節は九世紀の中国禅僧薬山惟儼禅師とある僧との問答文が基になっていますが、道元禅師はこの「非思量」を「感じること」と見抜かれていたが故に引用されたのではないかと思われます。 道元禅師にはまた「有時の而今(うじのにこん)」(『正法眼蔵』有時)という言葉があります。 「有」とは存在の意、「時」は時間です。「而今」とは今・現在の意です。 そして「有時」について「有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」(同)とあります。 「有」(存在)=「時」(時間)と仰っているのですが、そんなはずがありません。しかし一瞬における存在と時間を考えてみますと、どうでしょう。一瞬の全存在と一瞬の時とは一つと言えないでしょうか。言えるように思えます。「有時の而今」とはそれを言っているわけです。 道元禅師が坐禅中の心のあり方を「非思量」で説明されるのは、坐禅の中では「一瞬一瞬(今今)の全存在を感じ続けよ」と仰っているのだと思います。 そのとき何かを考えたとしたら、一瞬(今)をはずしたことになります。また歯を食いしばって一瞬一瞬を感じる作業に戻ります。 このような坐禅(只管打坐〈しかんたざ〉の坐禅、ひたすらなる坐禅)はテイラーさん式に言えば、「左脳をストップし右脳だけを働かす坐禅」ということになりましょうか。 道元禅師はそのような坐禅の果てにあるものを「身心脱落(しんじんだつらく)」と仰っておられますが、テイラーさんが、自分の体が流体と化し宇宙と一体だと感じて深い安らぎに包まれた、といわれる体験に相当するような気がします。(平成二十七年六月) |