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禅 第43話  新春独語
    



 お若い道元禅師が留学先の中国で師の如浄禅師に「どうしたら心を柔軟にできますか」と質問されたとき、如浄禅師は「仏々祖々の身心脱落に精進すれば柔軟心(にゅうなんしん)となる」と答えられたとされています(『宝慶記』)。

しかし、これでは更に難しくなったように思われます。『禅學大辞典』にも「柔軟心」の項目は見当たりません。

そこで近刊の玄侑宗久著『日本人の心とかたち』(角川SSC新書)を見ますと、この言葉を構造的に理解させてくれるように思います。

著者の玄侑さんは同書の中で「両行」(りょうこう)と「不二」(ふに)という二つの言葉で説明されています。

「両行」とは、古代中国の『荘子』に出てくる言葉で、仏教の説く「中道」に似た言葉とされています。たとえば、智慧と慈悲といった対になるような二つのどちらにも偏らないことを意味するようです。

「キュア」(治療)と「ケア」(介護)の場合で考えますと、キュア(治療)は確かに大切です。しかしその行き過ぎは延命治療という問題を引き起こします。ベッドにくくりつけられパイプで機械に繋がれたままでは人間として生きているとは言い難いでしょう。

そこでキュアとは相対的なケア(介護)を持ち出しますと、ケアとは、人生の終末を人間らしく生き、心安らかに最期を迎える在り方を言いますから、キュアの問題解決に役立つというわけです。

次に「不二」ですが、玄侑さんは「順境」と「逆境」を取り上げます。「私の都合」に合う状態が「順境」であり、合わないのが「逆境」だと言われます。

ですから「私の都合」をなくしてしまえば、「順境」も「逆境」もない「順逆不二」が成立します。

例として中国曹洞宗の開祖・洞山良价(とうざんりょうかい)禅師と、ある僧の問答が紹介されています。

 一僧「暑さ寒さの避け方を教えてください」
 洞山「暑さ寒さのない処へ行けよ」
 一僧「どんな処ですか」
 洞山「厚い寒いと不満を感じる自分を抹殺すればよいのだ」
     (寒時には闍梨〈自分〉を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺す)

ここでは「自分の抹殺」により「不二」が成立しますが、その時「俺は悟った」といったある傲慢さが芽生えたとすれば、これを何とかすべきでしょう。

そんな時、まだ自分を抹殺し切っていない人の目線を相補的なものとして大事にすれば、それが両行と言われます。

このような両行から不二、不二から両行の絶えざる心の運動こそ柔軟心だというのです。

何か一方に凝り固まる傾向を感じる昨今、柔軟心に目を向けてみてはどうでしょう。(平成二十六年一月)