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禅 第42話  自然(じねん)
    



 「自然」(しぜん)という言葉があります。普通は「山川草木」といった自然界に存在する物や現象を意味しますが、これは明治三十年代に「自然」がnatureの訳語とされた時にそのような意味になったとされています。

 本来の漢語として使われるときは「自然」(じねん)と読み、「自ずから然る」(おのずからしかる)という意味です。

 故森三樹三郎さんは、さらに詳しく「他者の力を借りないで、それ自身に内在する働きによって、そうなること、もしくはそうであること」の意味とされ、「他者の力」とは主に「人間の行為」(人為、はからい)を意味するとされますから、「自然」(じねん)とは、屋久島の縄文杉などが人為とは無関係にあのようにある在り方を言うでしょう。

 この本来の「自然」という言葉は、日本の中世において思想界を揺さぶったように思われます。

 たとえば、親鸞聖人の「自然法爾」(じねんほうに)は有名です。仏の願力(他力)を信じ切ることによって、自分で仏になろうといったはからいを完全に放棄すると、仏の願力が自然に働いて救われるという教えです。

 実は、道元禅師にもよく似た説示が『正法眼蔵』生死の巻に「心を以て、はかることなかれ、ことばをもつて、いふことなかれ。ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」とあります。

 よく似ていますね。問題は「わが身をも心をもはなちわすれて」(すべてのはからいを放棄して)にあるかと思います。

 これは「身心脱落」(しんじんだつらく)に相当するでしょう。禅師は『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)の中で、「言(こと)を尋ね語(ご)を逐ふの解行(げぎょう)を休す」「回光返照(えこうへんしょう)の退歩(たいほ)を学す」ような坐禅、すなわち、ひたすらな坐禅(只管打坐)(しかんたざ)をすれば、「自然に身心脱落して、本来の面目(めんもく)現前せん」と述べられます。

 難解な言葉が並びましたが、要するに、「ひたすらな坐禅をすれば、自然に身心脱落して(はからいが無くなって)仏となる」ということでしょう。

 はからいを捨てることができれば仏となる(救われる)という構造は親鸞聖人と同じです。

 違いは、聖人の場合が「信じ切ること」によって自然の働きが仏の願力を迂回して自分に及ぶのに対し、禅師の場合は「ひたすらなる坐禅」によって当初から自分自身に自然が働いており、「身心脱落」(はからいの消失)と「本来の面目現前」(仏となる)が同時に起こっています。

 いずれにせよ、道元禅師の教えの核心にも「自然」(じねん)の考えが深く関わっていると言えましょう。 (平成二十五年四月)