なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第41話  「同事」を考える
    


 「同事」(どうじ)とは、道元禅師の『正法眼蔵』菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)の巻や『修証義』第四章などで説かれる四摂法(布施・愛語・利行・同事)の一つであります同事のことです。

 「同事」とは「一つになること」を意味しますが、「一つになる」とは「差別しない」ということでしょう。差別しないから一つになりうるのだと思います。

 道元禅師は「海の、水を辞せざるは、同事なり」「よく水あつまりて海となり」と説かれ、海と水を使って同事を説明されています。

 一滴々々の水は違っていても、それらが辞さない(差別して避けない)からすべてが一つとなり海となっているわけです。

 すなわち、一つとなるといっても全く同じになるというわけではありません。皆違っていていいのですが、扱いを差別せず、一つのまとまりとなることかと思います。

 別な言い方をすれば、全体(海)を一つと見てその中の自分(一滴の水)を全体を構成する一要素であると見るわけです。

 自分を全体の一要素と見ることができれば、あなたも私も彼も彼女も、ある一つのものの部分であり、かけら同士であって、差別するいわれはありません。

 私たちの体は無数の細胞でできており、この細胞の一つひとつに血管が行き渡り、水分や養分を配っています。これが布施であり、利行でありましょう。

 無数の細胞が集まって一人の人間を形作り、人間が七十億集まって人類を形成しています。

 この人類の一人ひとりに水分や養分を配る血管に相当するものは一体何でしょう。

 私はそれを人びとの心の中にある宗教心に求めたいと思います。

 ここでいう宗教心とは慈悲心と智慧の二つからなり、慈悲心は皆に行き渡るようにと願う心をいい、智慧は慈悲心を裏で支えている全体を一つに見る同事という心を意味します。

 このような宗教心を実践するとき、四摂法という形をとることになりましょう。

 布施は役立つ物を、愛語は優しい言葉を、利行は役立つ行為を差し上げることですが、それらが可能なのは、他者を差別せず、むしろお互いが全体という同じものの部分であると見る同事という智慧が働いているからこそ可能なのだと思います。

 四摂法は禅僧が山奥の閑かな環境の中で実践する坐禅などとは違って、普通の社会生活が営まれている日常生活の中でこそできる実践です。

 そのような実践でありながら、自己を全体の一要素と見る同事という智慧は、自己を如何に捉えるかという智慧であり、道元禅師の「仏道をならふといふは・・・・・自己をわするるなり」と説かれるところと寸分も違わないものと言えましょう。(平成二十四年七月)