なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第40話  前後際断
    


 坐禅をしているときの心はどうあるべきなのでしょうか。

 私も一応坐禅をしておりますが、坐禅中の心はかくあるべしと自信を持って言うことはなかなかできません。
 
 巷では「無念無想」と言われているようですが、無念無想になろうとしても、「無念無想になろう」という思いがあることになりましょう。

 北宋時代の『禅苑清規』という書物に「念起らばすなわち覚せよ。覚すればすなわち失す」(思いが起こったならば、そのことに気付けよ。気付けば思いは消える)とあります。

 道元禅師もご自身の『普勧坐禅儀』の中にこの言葉を引用されましたが、後で別の言葉(不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量)と入れ替えられ、捨てられています。

 思いが起これば気付けばよいというのでは甘すぎるということでしょう。

 それではどうあるべきかと言えば、「非思量」(通常の考えることではない精神状態)だというのです。これでは取り付く島がありません。

 そこで参考になるのが「前後際断」という言葉です。これは「前際(過去)と後際(未来)は切れている」という意味です。

 私たちはものごとは過去から現在、そして未来へとつながっていると考えます。

 特にそのものが動いていると、そのことがよく肯けます。駅のプラットホームにいて通過する電車を見ていると、過去から現在にやってきて、未来に向けて過ぎ去って行く感じがします。

 しかし、その電車に乗ってしまうとどうでしょう。常に現在にいることになりませんか。

 私たちがものを考えているときは、プラットホームにいて通過する電車を見ているようなものです。時間の外の絶対世界とでも言えるような不動の世界(映画館の客席みたいな立場)に身を置いてものを考えてしまうのです。

 そこで通過する電車、即ち現在に身を置いて考えてみてください。

 現在は現実ですが、その現在から見ると一瞬前(前際)は観念の世界です。一瞬後(後際)も観念の世界と言えましょう。現実と観念とでは全く異なります。ですから「前後際断」と言われるのです。

 坐禅とは仮想的絶対世界(プラットホーム)から現実の世界(通過する電車)に飛び込むことだと思います。

 一瞬前も一瞬後も観念であることが実感できる現在(今)に飛び込むのです。別の言い方をすれば、常に「今」を感じ続けるのです。

 少しでも何かを考えてしまうと「今」をはずしてしまいます。歯を食いしばって「今」を感じ続けます。「今」を感じている限り考えることはあり得ません(非思量)。これが坐禅中の心の有り様かと思っています。(平成二十四年二月)