なるほど法話 海 潮 音
           
禅 第39話  「諸悪莫作」の聯
    


 先般、ある団体の方々が当山に拝観に来られました。

諸堂を説明しながらご案内し、最後に山門に向かい、そこでまた色々と説明を致しました。

一行のお一人が山門の両柱に掛かっている聯に「諸悪莫作」「衆前奉行」とあるのを質問されましたので、これは「諸悪は作ることなかれ」「衆善は奉行すべし」と読み、命令的な文になっていますが、もとは印度のパーリ語で書かれた『法句経』の一節で、命令文とはなっていません。

などと一応の説明を致しましたが、単純な説明では面白くないと思い、特に「諸悪莫作」について次のようなアドリブ的な説明も加えました。

道元禅師は「諸悪は莫作なり」(しょあくはまくさなり)と読まれ、この場合の「莫作」は「作すこと莫し」(なすことなし)という意味です。

どうしてそうなるのかと申しますと、坐禅の力によってそうなります。

悪いことをするとはどういうことかを考えてみましょう。

私たちにはこうであってほしい、ああであってほしい、という思いがあります。ところが、現実はそう簡単に私たちの思い通りにはなりません。ですから私たちの現実世界は苦しみの世界だといわれます。

この苦しいという段階で止まらずに、何が何でも思いを遂げたいと強く思っている人の中に、悪いことをしてでも思いを遂げようとする人がいたとしますと、そのとき「悪を作す」という事態が起こることになるわけです。

そこで坐禅の力が登場します。坐禅の力は私たちの「こうであってほしい、ああであってほしい」という思いを薄める働きをします。

坐禅の力が十分に発揮されて「勝手な思い」が薄まっていれば、思いを遂げようとはしないでしょうし、まして悪いことまでして思いを遂げる必要性はそもそもないことになりましょう。

道元禅師の「諸悪は莫作なり」(諸悪は作すこと莫し)とはこのような意味ではないでしょうか。

そして道元禅師は坐禅をして悪いことをする必要のない人間になりなさいと説いておられるのではないでしょうか。

といった感じで説明を加えました。

質問をした人は「レベルが高いのう」と仰ったので、ご理解いただいた上に、ご満足いただいたかなと少しばかり嬉しく思いました。

しかし私が申し上げたことは果たして的を射ているか少し不安になりましたので、『正法眼蔵』諸悪莫作の巻を紐解きますと、

「諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまち現成す。」

とありますので、当たらずも遠からずかなと密かに思い、皆さんをご案内したときのことをそのまま書いてみました。(平成二十三年十一月)