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禅 第37話  身心一如
    


「身心一如」という言葉があります。道元禅師の著作には必ず「身心一如」とあり「心身一如」とはなっていません。何か深い意味があるように思われます。

一般的には「心身」という言葉は存在しますし、医学の世界には「心身症」という言葉もあります。日本心身医学会という学会名まで存在します。

「心身症」とは、心の問題が大きく関わって起きた身体疾患という意味のようですから、この場合の「心身」は、心と身とは密接なつながりがあり分離して考えるべきではないという程の意味かと思います。

しかし、道元禅師の「身心一如」の場合は単に身と心とが一つだという意味だけで使われているのではないように思われます。

たとえば次のように説かれています。「かの外道の見(仏教以外の見解)は、わが身、うちにひとつの霊知あり。(中略)かの霊性は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるるゆえに、ここに滅すとみゆれどもかしこの生あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見かくのごとし。(中略)仏法にはもとより身心一如にして、(中略)身と心とをわくことなし。(中略)しかあるを、なんぞ身滅心常といはん、正理にそむかざらんや」(『正法眼蔵』弁道話)、

或いはまた「身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」(『正法眼蔵』現成公案)とあります。

最初の文に説かれる外道の見解は、身体が滅するとき霊知(心)がかしこ(あの世)で生まれるから心は常住(永遠)だという考えです。

この考えは人間的心情からすればよく分かりますし、私たちが実際に行っている先祖供養はこのような考えに基づいているといえましょう。

しかし仏教は身心一如と説くのですから「身は滅なのに心は常」というのは正しい道理に背きはしないか、身心についてこのような間違った考えで物事を判断していると、ついつい自分の心だけは常住だと誤ってしまうのであると道元禅師は説いておられるのです。

 身体が生滅するもの、無常なるものであることは誰もが知っています。にもかかわらず、自分の心は常住だと堅く思ってしまうところがあります。そのような誤りを道元禅師は力を入れて正そうとされています。

そのとき誰もが認める「無常なる身」を先に置き、それに「心」従わせて「身心一如」と説かれます。無常という真理を顕わにしている「身」を大切にされておられる表れかと思います。

それにしても道元禅師に従えば先祖供養は出来ません。仏教とはややこしいものではあります。(平成二十三年七月)